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唐梅楯(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6341.JPG←二ノ郭から見た井戸・主郭
 唐梅楯(唐梅館)は、長坂城とも言い、奥州千葉氏の一族長坂千葉氏の歴代の居城である。長坂千葉氏は、下総の名族千葉介常胤の7男刑部少輔頼胤を祖とすると伝えられる。即ち、源頼朝の奥州合戦の軍功で葛西清重が奥州惣奉行に任ぜられた時、頼胤もその麾下として磐井郡東山郷長坂村を領して奥州に下向したと言う。しかし奥州千葉氏の出自については不明点が多く、信憑性は薄いとされる。いずれにしても、長坂良胤・百岡胤広・岩谷堂胤道・本吉正胤・浜田胤重・大原宗胤・薄衣唐胤等を分立した長坂千葉氏の本宗として栄えた。1590年の小田原の役の際には、同年4月17日、葛西氏麾下の諸将が唐梅楯に参集して、小田原参陣の是非を議した由緒ある楯と伝えられる。結局葛西氏は小田原に参陣できず、不参の故を以って奥州仕置で改易され没落した。その旧領を与えられた秀吉の家臣木村吉清・清久父子は、統治能力の欠如から圧政を敷き、同年10月、葛西・大崎両氏の旧臣たちは葛西大崎一揆と呼ばれる大規模な叛乱を起こした。この時、長坂千葉氏からは千葉大膳亮胤村が栗原郡高清水森原山に脇頭(副将)として出陣したと言う。

 唐梅楯は、標高249.4mの唐梅館山に築かれている。名勝として有名な猊鼻渓の北方にそびえる山で、いかにも城があった山という感じに見える。城は公園となって整備されており、比高200m以上もあるが、城近くまで車で行くことができる。山頂に長円形の主郭を置き、主郭の北・西・南を囲むように二ノ郭を廻らし、更に南面から西面にかけて何段もの帯曲輪を築いている。主郭の北辺部には土塁があり、ここに千葉頼胤の供養碑が立っている。二ノ郭には主郭直下に大きな井戸がある。帯曲輪群は郭内がかなり傾斜しており、居住性はほとんどない。この他、主郭の東側にも段曲輪群があるが、こちらは薮がひどくて踏査が大変である。唐梅楯は、遺構はよく残っているが、曲輪群のみで構成された城で技工性もなく、素朴な縄張りで少々物足りなく感じる。
南斜面の帯曲輪群→DSCN6388.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.006688/141.253538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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