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下郷要害城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7436.JPG←主郭後部の櫓台
 下郷要害城は、武茂氏の庶流大山田氏が築いたと伝えられる。武茂氏初代泰宗の子孫泰景が大山田左京亮を称し、永禄年間(1558~70年)に築城したと言われる。大山田氏は那須氏に属しており、1570年に佐竹氏が攻め滅ぼした大山田城はこの城のことと推測されている。この後廃城になったと言う。

 下郷要害城は、『栃木県の中世城館跡』によれば、深い谷を挟んだ南北2ヶ所に城があると言う。一方、お城巡りの先達余湖さんのHPによれば、北の城を「新地の城」、南の城を「古城」と呼んでいるとのことで、ここでは余湖さんの記載に倣って、北の城を下郷要害城、南の城を下郷要害古城とし、本項では下郷要害城について述べる。

 下郷要害城は、武茂川東岸の比高90mの山上に築かれている。北西麓に武茂川を渡る橋があり、その先を東に向かって進み、道なりに南に入っていくと、城の東の谷筋を登っていくことになる。そのまま山道を進むと右手の尾根に登っていき、北尾根の堀切に至る。堀切の東側には腰曲輪が1段築かれている。北尾根には堀切の先に細長い4郭があり、その先端は物見台となって急崖に臨んでいる。前述の堀切には土橋が架かっており、その南に登ると二ノ郭に至る。ここからが城の中心部である。城の中心部は3段の曲輪で構成され、上から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭とひな壇状に並んでいる。主郭は三角形の曲輪で、後部に櫓台らしい土壇があり、背後の尾根に小堀切を穿っている。二ノ郭は最も広やかな曲輪で、主郭とは明確な切岸で区画され、二ノ郭南辺には主郭から続く土塁が築かれている。おそらく坂土橋を兼ねていたと思われる。二ノ郭の西には、一段低くT字型の三ノ郭が広がっている。三ノ郭の西端から北西に細尾根が伸び、先端には祠が祀られているが、これも往時の物見台であったと思われる。以上が下郷要害城の遺構で、あまり防御の固い城とは思えないが、急崖に臨んだ地勢ゆえに、あまり硬い防御を必要としなかったからかもしれない。
主郭背後の堀切→DSCN7442.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.788709/140.222669/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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