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山田城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6222.JPG←東斜面の竪堀
 山田城は、明徳・応永年間(1390~1428年)頃に山田新左衛門尉の居城であったと伝えられる。『神長守矢満実書留』によれば、1482年8月に高遠氏による保科氏討伐に関連して、藤沢氏の城が保科氏に奪われたため、府中の小笠原長朝が藤沢氏支援のため出陣した。小笠原勢は高遠氏側にあった山田城を攻撃したが失敗し、多数の戦死者を出したと言う。その後1549年に、山田新左衛門が甲斐武田氏と金沢峠で戦って討死した。新左衛門の子弥介は武田氏に属し、二十騎の将となったと言う。

 山田城は、三峰川南方にある山田集落背後の標高850m、比高80m程の小山に築かれている。登道はいくつもあるようだが、私は谷筋から登る西北西の登山道から訪城した。山頂の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に曲輪群を配した縄張りとなっている。主郭は公園になっているが、南側に土塁が残っている。南東には堀切が穿たれ、その先に二ノ郭が構築されている。二ノ郭の先端も堀切が穿たれ、その先には舌状曲輪、帯曲輪。段曲輪が築かれている。南尾根には、堀切と小郭が交互に築かれているが、この尾根の堀切には鋭さがなくのっぺりしている。小郭も削平が甘く、塁線がはっきりしない。北東尾根は、主郭腰曲輪の下方に広い舌状曲輪があり、その外周と下方に腰曲輪が幾重にも築かれている。北西尾根は、前述の3つの尾根の曲輪群と構造が異なり、小さな段曲輪群を多数連ねただけで、広い曲輪もなく堀切も作られていない。この城では、主郭の北から西にかけての斜面に竪堀群が穿たれている。一応、ピンクのテーピングで竪堀群を廻る小道が表示されているが、草木が多いのであまり見栄えしない。山田城は、竪堀群があるというので期待して行ったが、普請がやや大雑把で、山田城の前に行った守屋山城と比べると随分と見劣りする。虎口も平易であり、通説とは異なり甲斐武田氏による改修の痕跡があまり感じられない城である。的場城と比べると、その違いは歴然としている。
主郭の土塁→DSCN6272.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.826904/138.048813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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