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的場城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3428.JPG←外周の横堀
 的場城は、歴史不詳の城である。甲斐武田氏による高遠城の築城以前から、的場城が何らかの形で存在していたと考えられている。室町・戦国期には諏訪氏の一族高遠氏が高遠を支配していたが、高遠氏の居館・居城がどこであったのか判明していない。そのため、高遠氏が築いた要害城であったとの説もある。武田氏が高遠を制圧し、高遠城を築いて上伊那統治の拠点とすると、高遠城防衛のために山田城守屋山城などと共に補強改修を受けたのではないかと推測されている。

 的場城は、高遠城を眼下に見下ろす標高910m、比高160mの城山に築かれている。登道はいくつかあるらしいが、蓮華寺背後の墓地裏から山腹を巡る水路に出て、水路沿いに東に半周したところから登道があり、それが一番わかり易いと思う。城は、北東から南西に伸びる尾根上に築かれている。南から順に、三ノ郭・繋ぎの曲輪・二ノ郭・主郭と連郭式に配置した縄張りであるが、主郭に向かうにつれて段々と曲輪の高度が上がっていく梯郭的な配置でもあり、主郭や二ノ郭からは下方の曲輪を睥睨できるように設計されている。そしてこれらの曲輪群の外周に横堀または帯曲輪をほぼ全周させ、所々に竪堀を合計10本以上も落としている。竪堀はいずれも形状がはっきりしており、放射状竪堀で知られる甲斐白山城よりも竪堀は大きい。三ノ郭は城内で最も広く、土塁囲みの台形状の曲輪で、いかにも先端部の防衛陣地という趣である。東と南に虎口が築かれている。三ノ郭の南尾根には土塁や竪堀による防御構造がある。三ノ郭の北にある繋ぎの曲輪は細長い平場で、その上に二ノ郭が置かれている。二ノ郭も低土塁で囲まれ、南東と西側中央に小型の枡形虎口が築かれている。特に西虎口は横堀に架かる坂土橋で横堀外周の土塁に連結している。二ノ郭の北には1段高く前郭があり、その上に主郭がある。前郭の西側には横堀を屈曲させ、そこから斜めに竪堀を落として虎口を形成し、その横にも竪堀を落として側方遮断した巧妙な構造があり、前郭はこの虎口や堀底に対して横矢を掛けており、絶好の迎撃ポイントを形成している。主郭は三角形をした狭小な曲輪で、南に小規模な枡形虎口が築かれている。この虎口への動線は横堀土塁から坂土橋で連結した形となっており、他の城でも時折見られる構造だが、主郭虎口ではあまり見ない形態である。主郭には居住性がなく、城全体を俯瞰できる位置にあることから、防衛指揮所的な場所だったと想像される。主郭の北にはなだらかな平坦地が広がっており、東辺に土塁を築いている。平坦地の北端は高台となり、その先の尾根の付け根に堀切が穿たれている。的場城は大きな城ではないが、かなりテクニカルな縄張りの城で、高遠城防衛の重要な城だったと推測される。しかしそれにしては、1582年の武田征伐で織田勢が高遠城を攻撃した際にその動向は現れず、当時どの様な形で管理されていたのか、謎も多い。
土塁囲みの三ノ郭→DSCN3282.JPG
DSCN3317.JPG←横堀に架かる土橋
横堀屈曲部から落ちる竪堀→DSCN3410.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.842230/138.064735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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