小谷城(埼玉県鴻巣市) [古城めぐり(埼玉)]
←城跡の現況
小谷(こや)城は、戦国期に忍城主成田氏の家臣小宮山内膳の居城であったと伝えられる。小谷とは即ち「小屋」であり、戦国時代には小規模な城のことを「小屋」と呼んだ。小宮山氏としては、同じ成田氏の家臣の中に戸塚城主小宮山弾正介忠孝がおり、弾正介は小谷城北方にある宝勝寺の開基であったとも伝えられる。これらのことから、内膳と弾正介は同族であり、内膳の方が古い時代の人であったと推測されている。また宝勝寺の石碑では、弾正介が小谷城主の時、城の塁壁内に宝勝寺を建立したものと推測している。尚、1590年の小田原の役の際、忍城主成田氏長は小田原城に詰めており、その応援部隊の中に小宮山弾正の名がある。豊臣秀吉に降伏した成田氏は、1591年に下野烏山城に移封となっており、成田氏に仕えた小宮山氏は弾正が最後であったろうと考えられている。
小谷城は、荒川東岸の平地にあったらしい。現在は城跡付近を堤防が貫通しており、往時の景観は変わってしまっている。堤防上にある現地解説板によれば、城の中心部は堤防の西側にあったらしく、近辺には城山・小城沼・元屋敷・仕置場など城に関係した地名が残ると言うが、一面の畑・空き地になってしまっている。近くの日枝神社は城の北東にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との説もある。今となっては失われた城である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.077190/139.465964/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
尚、訪城した時、たまたま日枝神社では氏子さん達が集まって作業をしていたが、覆屋の中にある本殿を案内してくれた。なんでも令和になってから発見された本殿とのことで、それまでは覆屋の中は未整備の物置状態で、誰も中を覗けなかった状態だったらしい。中を皆さんで整理したところ、現れたのは国宝の妻沼聖天山とよく似た極彩色の貴重な本殿で(⇒当時の新聞記事はこちら)、とりあえず2022年2月に市の有形文化財に指定されたばかりとのこと。普段は見ることのできない本殿で、とても貴重なものを見せていただける幸運に巡り会えた。案内していただいた方には本当に感謝!である。
小谷(こや)城は、戦国期に忍城主成田氏の家臣小宮山内膳の居城であったと伝えられる。小谷とは即ち「小屋」であり、戦国時代には小規模な城のことを「小屋」と呼んだ。小宮山氏としては、同じ成田氏の家臣の中に戸塚城主小宮山弾正介忠孝がおり、弾正介は小谷城北方にある宝勝寺の開基であったとも伝えられる。これらのことから、内膳と弾正介は同族であり、内膳の方が古い時代の人であったと推測されている。また宝勝寺の石碑では、弾正介が小谷城主の時、城の塁壁内に宝勝寺を建立したものと推測している。尚、1590年の小田原の役の際、忍城主成田氏長は小田原城に詰めており、その応援部隊の中に小宮山弾正の名がある。豊臣秀吉に降伏した成田氏は、1591年に下野烏山城に移封となっており、成田氏に仕えた小宮山氏は弾正が最後であったろうと考えられている。
小谷城は、荒川東岸の平地にあったらしい。現在は城跡付近を堤防が貫通しており、往時の景観は変わってしまっている。堤防上にある現地解説板によれば、城の中心部は堤防の西側にあったらしく、近辺には城山・小城沼・元屋敷・仕置場など城に関係した地名が残ると言うが、一面の畑・空き地になってしまっている。近くの日枝神社は城の北東にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との説もある。今となっては失われた城である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.077190/139.465964/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
尚、訪城した時、たまたま日枝神社では氏子さん達が集まって作業をしていたが、覆屋の中にある本殿を案内してくれた。なんでも令和になってから発見された本殿とのことで、それまでは覆屋の中は未整備の物置状態で、誰も中を覗けなかった状態だったらしい。中を皆さんで整理したところ、現れたのは国宝の妻沼聖天山とよく似た極彩色の貴重な本殿で(⇒当時の新聞記事はこちら)、とりあえず2022年2月に市の有形文化財に指定されたばかりとのこと。普段は見ることのできない本殿で、とても貴重なものを見せていただける幸運に巡り会えた。案内していただいた方には本当に感謝!である。
(拡大可)
タグ:中世平城
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