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飯田城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1691.JPG←三の丸の堀跡
 飯田城は、下伊那の拠点城郭で、幕末まで存続した下伊那で唯一の城である。室町時代に飯田郷を治めた愛宕城主坂西氏が、新たに飯田城を築いて居城を移したと伝えられる。 坂西氏は、信濃守護小笠原貞宗の3男宗満が貞和年間(1345~50年)に飯田郷の地頭職となって飯田郷三本杉に居館を構え、坂西孫六を称したことに始まるとも、或いは鎌倉初期に阿波国坂西の近藤周家が源頼朝の命により飯田の地頭となって坂西氏の祖となったとも言われる。いずれにしても坂西氏の事績が史書に現れるのは室町時代のことで、1400年の大塔合戦では坂西次郎長国が奮戦し、1440年の結城合戦では長国の子政忠が信濃守護小笠原政康に従って参陣している。1554年に甲斐の武田信玄が下伊那に侵攻すると、下伊那の多くの国人衆は武田氏に降り、飯田城主坂西政之も武田氏に服属して武田家重臣秋山伯耆守虎繁の組下となり、軍役60騎を勤めた。1562年、坂西長忠が松尾小笠原信貴の領地を侵して信玄に訴えられ、武田・松尾小笠原軍に討ち取られた。その後は秋山虎繁が城代として飯田城に入った。1573年、虎繁は信玄の命で、前年に武田方に寝返っていた東美濃の岩村城に移り、飯田城には坂西長忠の弟織部亮が入城した。1575年、武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗すると、坂西氏は武田氏から離反して処刑された。1582年2月、織田軍が武田征伐を開始すると、下伊那の有力国衆であった松尾城主小笠原信嶺が早々に織田方に降り、動揺した飯田城の坂西織部亮・保科正直・小幡因幡守らは城を捨てて逃亡した。その後、織田方に制圧された飯田城には、織田軍の主将織田信忠や、本隊を率いる織田信長が一時的に本陣を置き、武田氏滅亡後は織田氏家臣毛利河内守長秀(秀頼)が飯田城に入って伊那統治を開始した。しかし間もなく本能寺の変で信長が横死したため、織田領国となって日の浅かった甲斐・信濃の織田勢力は瓦解し、長秀も飯田城から退去した。天正壬午の乱を経て徳川氏の支配下となると、菅沼小大膳定利が飯田城に入って伊那郡を統括した。1590年に徳川家康が関東に移封となると、菅沼氏も上野国吉井へ移り、毛利長秀が再度飯田城に入封した。1593年、肥前名護屋城下で毛利氏が病没すると、長秀の娘婿京極高知が飯田城を継承した。1600年の関ヶ原合戦の後、小笠原秀政が城主となり、1613年に小笠原氏が松本城へ移封となると、飯田藩は幕府直轄地となって小笠原氏の家老が在城した。1617年、脇坂安元が伊予大洲城から飯田城に移ったが、1672年に播磨龍野城に移った。その後は下野烏山城から堀氏が入り、幕末まで飯田藩を治めた。

 飯田城は、松川と谷川に挟まれた舌状の河岸段丘に築かれている。往時は先端から山伏丸・本丸・二の丸・三の丸が直線状に並んだ城であったが、山伏丸にはホテルが建ち、本丸は神社、二の丸は美術博物館と宅地、三の丸は小学校・図書館・庁舎となり、市街化で遺構はかなり失われている。それでも、神社背後には本丸の石積・土塁が残り、本丸・二の丸・三の丸の堀跡の一部は、わずかにその形を留めている。二の丸の堀跡には水の手御門跡の石垣が道の両側に残っている。井戸は全部で3つ表示されているが、発掘復元されているのは二の丸の1つだけで、その他は歩道への標示や形ばかりの復元だけである。外郭もあったが、昭和22年の飯田大火で町家はほとんど消失してしまっているので、古い城下町もほとんどその姿を留めていない。その代わり、移築現存門が市内各所に比較的多く残っており、わずかな救いとなっている。
本丸の堀跡→DSCN1763.JPG
DSCN1802.JPG←水の手御門跡の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.511819/137.832413/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:近世崖端城
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