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津毛城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8057.JPG←城址の現況
 津毛城は、越中に進出していた上杉氏が、飛騨方面からの織田勢の富山侵攻を食い止める前線拠点となった城である。確証はないが、元々の創築は南北朝期の武将桃井播磨守直常によると言われる。桃井氏の事績は桃井城の項に記載する。江戸時代の文書によれば「ツケノ城」「附之城」などと記されており、これが津毛城の本来の城名であったらしい。それによれば、飛騨の三木良頼の部将で戸川(栂尾)城主塩屋筑前守秋貞が、樫ノ木城を攻撃するために築いた付城であったとされている。その時期は、永禄・元亀年間(1558~73年)頃と推測されている。その後、越後の上杉謙信が越中に進出すると、上杉氏の家臣村田修理(縫殿助)が城将となり、上熊野城主二宮氏と頻りに交戦したと伝えられる。1578年に謙信が急死すると、その動揺の隙を突いて織田方の神保長住が飛騨から侵攻した。更に9月24日、織田方の部将斎藤利治が尾張・美濃の織田軍を率いて来援すると、津毛城の上杉方城将椎名小四郎(長尾景直)・河田長親は、戦わずして津毛城を退去し、今泉城に撤退した。上杉勢が退去した津毛城には、神保長住が入城した。10月4日、利治は月岡野で河田・椎名らの上杉勢と戦って大勝し、首級360を上げた。その後、織田方が富山城付近を確保するまでの間、津毛城も織田方の拠点として守られていたと推測されている。

 津毛城は、熊野川とその支流黒川の合流点に東から突き出た段丘先端部に築かれている。残念ながら1960年代後半に城跡は大規模な土砂採取によって消滅し、その後は福沢小学校などの校地に変貌している。従って遺構は全く残っていない。しかし昭和30年代後半の航空写真を見ると、東側を区画するクランクした空堀が畑地の中にはっきりと見え、クランク部に虎口の存在も確認できる。現在は、崖に囲まれた丘陵の地勢だけが城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.603169/137.257605/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

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