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鳥越城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3729.JPG←本丸の土塁と櫓台
 鳥越城は、織田軍に徹底抗戦した加賀一向一揆の最後の拠点となった城である。1570年に石山本願寺と織田信長の間で石山合戦が始まり、鳥越城もその軍事的緊張の余波で1573年頃に築かれたとされる。城主は、紀伊雑賀衆の首領鈴木孫一重秀の一族とも言われる鈴木出羽守で、出羽守は本願寺から派遣された武将とされる。1580年、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、勝家は同年4月に尾山御坊を攻略した。しかし白山麓の一向一揆山内衆は、鳥越城・二曲城を拠点に頑強に抵抗を続けた。鳥越城の固い守りに苦戦した勝家は和睦を持ちかけ、鈴木出羽守一族を松任城に呼び出して謀殺し、11月に鳥越城・二曲城共に落城した。鈴木出羽守を殺された後も山内衆は抵抗を続け、二度に渡って蜂起した。一度は鳥越・二曲両城を奪還したが、間もなく佐久間盛政に攻略された。1582年には信長から一揆残党の掃討の命を受けた盛政は、峻烈な一揆弾圧を行い、300余名の門徒衆が磔刑となった。ここに100年にわたって加賀を支配した一向一揆は壊滅した。

 鳥越城は、手取川と大日川に挟まれた、標高310m、比高120mの城山に築かれている。現在国指定史跡となっており、城内は綺麗に復元整備されている。しかも山上まで車で行けるので、訪城は容易である。山上に北から順に後三の丸・後二の丸・本丸・中の丸・二の丸・三の丸を連ねた連郭式の縄張りとなっている。後三の丸は、後二の丸との間に大堀切を穿って分断した独立性の高い曲輪で、外周に横堀を廻らしている。南側には一段の小郭を置き、また南東には水の手を兼ねたと思われる「あやめが池」がある。後二の丸と本丸は小山となって後三の丸の南にそびえ、東側には腰曲輪を置き、後二の丸の北から西には横堀を穿っている。ここには小さな土橋が架かり、土橋の側面は石積みで補強されている。後二の丸と本丸との間は堀切で分断されている。本丸は長方形の曲輪で、内部に建物跡が復元表示されている。外周に低土塁を伴い、南東に櫓台を設け、南に桝形虎口を築いている。桝形虎口は石垣が綺麗に復元され、高麗門と櫓門も復元されている。しかしいくら何でも、天正年間(1573~92年)の山城に高麗門というのは実態に合わないように思うが、国指定史跡だから根拠もなく復元するわけがないので、判断に迷う。桝形虎口の東側は堀切となって東の腰曲輪に繋がっている。本丸の西には腰曲輪があり、登城道を兼ねている。本丸の南は中の丸で、土塁や柵列があり、南西に門が復元されている。中の丸の南に一段高く二の丸があり、ここにも土塁と櫓台が復元されている。二の丸の南に土橋の架かった堀切を介して三の丸が広がり、三の丸の南にも土橋の架かった堀切を介して段曲輪があり、その下方に広大な外郭(現地解説板ではマゴジクボと表示されている)があり、外周に大土塁を廻らしている。前述の三の丸南の堀切の東側には、堀切から落ちる竪堀につながる形で、コの字型の横堀・竪堀が築かれている。
 遺構は以上の通りで、鳥越城は織田氏による改修の可能性を残すものの、石垣の石は小さく、穴太積みのような近世的なものではないので、一向一揆時代の遺構を多く残していると思われる。それを考えると、一向一揆は戦国大名と同じレベルの高度な軍事集団で、城普請も戦国大名の一級城郭と変わらないレベルである。とても農民が単に武装化したレベルではない。そういう考証ができる点でも、鳥越城は貴重である。
本丸の桝形虎口→IMG_3713.JPG
IMG_3775.JPG←三の丸南の土橋と堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.366045/136.601129/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

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