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二曲城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4592.JPG←主郭前面の桝形虎口と石敷道
 二曲(ふとげ)城は、織田軍に徹底抗戦した加賀一向一揆が、鳥越城と共に最後の拠点とした城である。元々はこの地の土豪二曲右京進によって築かれた。二曲氏は、山麓の通称「殿様屋敷」に居館を置き、山上に二曲城を築いて詰城としていた。1570年以後、本願寺から派遣された鈴木出羽守が一向一揆山内衆(白山麓の門徒衆の総称)の大将となると、織田軍に対する防御を固めるため、二曲城の向かいの山に新たに鳥越城を築き、二曲城はその支城となった。1580年、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、勝家は同年4月に尾山御坊を攻略した。しかし白山麓の一向一揆山内衆は、鳥越城・二曲城を拠点に頑強に抵抗を続けた。鳥越城の固い守りに苦戦した勝家は和睦を持ちかけ、鈴木出羽守一族を松任城に呼び出して謀殺し、11月に鳥越城・二曲城共に落城した。鈴木出羽守を殺された後も山内衆は抵抗を続け、二度に渡って蜂起した。一度は鳥越・二曲両城を奪還したが、間もなく佐久間盛政に攻略された。1582年には信長から一揆残党の掃討の命を受けた盛政は、峻烈な一揆弾圧を行い、300余名の門徒衆が磔刑となった。ここに100年にわたって加賀を支配した一向一揆は壊滅した。

 二曲城は、鳥越城から大日川を隔てて南にそびえる標高260m、比高75mの山上に築かれている。北の峰に主郭を置き、鞍部を挟んで南の峰に、独立した曲輪である五ノ郭を置き、間の谷部の最上段には四ノ郭、主郭から西に下る尾根筋にニノ郭・三ノ郭を配置した縄張りとなっている。鳥越城と比べると、かなり規模の小さな小城砦である。三ノ郭の前面は両側を堀切で穿って小郭を置き、背後の二ノ郭との間も片堀切で分断し、側方に土橋を架けている。ニノ郭は小さい曲輪ではあるが、桝形虎口と設け、土塁で囲まれ、掘立柱建物跡も見つかっている(発掘調査結果に基づいた表示あり)。土塁などは復元整備されたものだが、史跡整備をした後に豪雨などで崩れており、二ノ郭北斜面も崩落している。二ノ郭から主郭まではやや離れているが、尾根にいくつもの段曲輪が築かれている。ニノ郭虎口や主郭虎口に石畳みをコンクリートで固めた道が付いているが、これは発掘調査で見つかった石敷路を復元したものらしい。主郭も前面に桝形虎口を築いた三角形の小さな曲輪であるが、掘立柱建物跡や井戸、櫓があったらしい。主郭の北側には2段の帯曲輪が築かれ、南隅にも小郭が築かれている。谷部にある四ノ郭は、倉跡が見つかっており、前面には石垣で補強された堰の様な土塁が築かれている。五ノ郭は、史跡整備された痕跡はあるが、辛うじて登り道が残るが薮でほとんど途絶しかかっており、現在はほとんど未整備で、曲輪内も猪にかなり荒らされている。辛うじて外周の土塁が確認できるだけの小さな曲輪で、物見程度のものである。
 二曲城は、鳥越城と共に国指定史跡になっているので、一旦は復元整備がされたが、現在はかなり荒れてきており、ちょっと残念な状態である。城の遺構面でもかなり見劣りする。
堀切と三ノ郭→IMG_4586.JPG
IMG_4621.JPG←四ノ郭前面の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.357198/136.600957/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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