SSブログ

松山城(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4217.JPG←主郭外周の横堀
 松山城は、加賀一向一揆が築き、後に織田軍の城砦となった。史料上の初見は1555年の朝倉宗滴による加賀進攻の際、一向衆の篝火が置かれたとされる。この頃、一向衆によって朝倉氏の攻撃に備えて築かれたと推測される。1567年には、越前朝倉氏の元に身を寄せていた足利義昭が朝倉氏と一向宗の和睦を周旋し、松山城は一旦は焼却廃城となった。1580年の柴田勝家率いる織田軍による加賀一向一揆制圧戦の際には、松山城には徳田小次郎・坪坂新五郎らの一揆勢5~600人が立て籠もったが、柴田勝政・拝郷・溝口の諸将の山手からの攻撃により落城した。織田勢による加賀制圧の後は佐久間盛政の家臣徳山則秀が松山城主となったと言われる。1600年の関が原の戦いの際には、金沢城主前田利長が松山城を陣城として大聖寺城を攻撃した。

 松山城は、標高45mの丘陵上に築かれている。この丘陵を本城とし、西に伸びた尾根の先の小山に出丸を置いている。本城と出丸の間の平坦な平場は寺屋敷の地名が残っている。本城の前に西の出丸に登るとそこはタケノコ山で、訪城時はまだ4月末だったので、タケノコ狩りをしていた地元の人に許可をもらって入山した。西の出丸には「物見櫓」の看板が設置されており、輪郭式の縄張りとなっている。頂部の平場の周囲に2段の腰曲輪が廻らされ、下段の腰曲輪の南側は横堀状になっている。出丸と東の寺屋敷の平場や尾根との間には長い空堀が穿たれている。この空堀は、南部で「く」の字に曲がって尾根まで掘り切っている。出丸側には土塁が築かれ、城道が残り、土塁の西側には曲輪が広がっている。空堀を越えて東に進むと、本城への登道の前に「大臣泊館跡地」のプレートが現れる。どういう由来か、また寺屋敷との関連はどうだったのか気になるが、解説が何もないので不明である。その先には本城西尾根の曲輪群が現れる。北に2段の腰曲輪を伴った尾根上の細長い曲輪である。主郭は中央の小山にあり、塚のような土壇が曲輪内にある。主郭の外周には南面以外を横堀が穿たれている。この横堀は東西両端とも南端に土橋を設けて東西の尾根に繋がり、土橋付近では堀も深いが、北に行くに従って堀は浅くなっている。堀の外側には北西尾根・北尾根に曲輪群が築かれている。北尾根の付け根には松山古墳があり、往時は物見台として機能したのだろう。主郭の東には前述の通り土橋が架かっているが、この部分は二重横堀となっていて、土橋は直角に曲がって横堀外周の土塁に繋がり、その先で東へ曲がるルートとなる。更に東に土橋の架かった堀切が穿たれ、その先は東尾根の曲輪になっている。この曲輪は削平が甘く、土塁が築かれているもののほとんど自然地形に近い。以上が松山城の遺構で、織田軍が使用したにしては城の規模は小さく、主郭東の複雑な動線構造以外には見るべきものが少ない。一向衆殲滅後はあまり重要視されなかった城の様に思われる。
 尚、城内には一応の散策路はあるが、あまり整備はされておらず、特に主郭東側は薮が多くて、せっかくの複雑な動線構造が薮に埋もれており、少々残念である。
主郭西側の土橋→IMG_4177.JPG
IMG_4113.JPG←東の出丸の空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.312134/136.392410/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー