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飯田城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

IMG_8039a.JPG←北西斜面の畝状竪堀
 飯田城は、飯田氏の城と言われている。天正年間(1573~92年)の城主の名として、飯田与三右衛門長家の名が伝わっている。飯田氏は、この地を領した土豪であったとも、越後の飯田与七郎の同族とも言われる。いずれにしても1577年に上杉謙信が能登を制圧すると、正院川尻城に入った上杉氏家臣長景連に属した。しかし翌78年に謙信が急死して上杉氏の勢力が減退すると、1579年には織田信長の勢力が能登を圧し、温井景隆・三宅長盛らによって七尾城将鯵坂長実が追放されると、能登各地の上杉氏勢力は駆逐されていった。この中で飯田城も落城して、長家は越後へ逃れたと考えられている。

 飯田城は、飯田港の北に位置する標高40m程の丘陵上に築かれている。東麓に津波避難階段があり、以前はそこから城に登れたらしいが、現在は鍵で閉鎖されている。地元の方の話では、山の地主さんが倒木などで危ないからと使用を断ったとのことである。結局登り口がわからず、西側の斜面を薮をかき分けて直登した。主郭は頂部にあるが、大きな長円形の平場の中に高台となった方形の2郭を並べる珍しい形で、これら全体を主郭と見做している人も多いが、私は中央の2郭の内、南側の高い方を主郭、北側の低い方をニノ郭、その周りを取り巻いている平場をこれらの腰曲輪と解釈した。主郭とニノ郭の間は、広幅で浅い堀切を設けて区画している。堀切の南側は窪地になっており、虎口があった様である。これら城の中心部下方の西から北を巡って東にかけて、延々と腰曲輪が築かれている。この腰曲輪には北西部と東部に比較的大型の畝状竪堀が築かれている。この畝状竪堀は、上杉氏支配時代に構築されたものと推測されている。また城中心部の南東には、切岸の下に三ノ郭がある。三ノ郭は、南北に連なる3つの平場で構成され、これらは段差で区切られ、真ん中の平場が一番高くなっている。三ノ郭には前述の東側の腰曲輪と城道が通じている。三ノ郭の南には小堀切が穿たれ、その先に伸びる尾根筋にも曲輪群と、堀切が穿たれている。この堀切は鋭さがあり、中央に土橋を架け、内側に土塁が築かれて防御性を向上させている。一方、城中心部の北は腰曲輪がそのまま堀切に変化し、その北に物見台の様な北出曲輪が構築されている。この他、南尾根の西側の谷筋にも曲輪群があるらしいが、薮がひどかったので未確認である。飯田城は、萩城よりは規模が大きいが、やはり比較的少数の兵で守れる様に畝状竪堀で防御性を増した城である。
二ノ郭から見た堀切と主郭→IMG_8014.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.439395/137.261617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


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萩城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7870.JPG←主郭西側の畝状竪堀
 萩城は、歴史不詳の城である。地元では黒峰城の出城との伝承があるらしいが、飯田城の支城との説もある。畝状竪堀があることから、天正年間(1573~92年)に上杉勢によって改修された城と推測されている。

 萩城は、飯田湾の海岸線に近い標高40m程の丘陵上に築かれている。尾根南端に登り口があり、そこから山上まで小道が付いている。城内は、間伐など人の手が入っているので遺構が見やすい。峰の頂部に主郭を置き、南の尾根筋には主郭の前面とその前に築かれた前郭の前とに、2本の堀切を穿ち、主郭背後も堀切で分断している。南の尾根筋の堀切には、いずれも中央に土橋が架かっているが、主郭前面の堀切は幅が広く、より防御性を持たせている。主郭には朽ちかけた神社の社殿があり、主郭の西斜面には、横堀が穿たれ、そこから比較的大きな畝状竪堀が落ちている。またこの主城から90m程尾根を北に行った先に出城がある。出城は方形の曲輪の背後に横矢の掛かった堀切が穿たれている。堀切背後の尾根も曲輪だった可能性があるが、出城全体が薮が多くて判然としない。萩城は小規模で簡素な城であるが、普請はしっかりしており、少人数の兵で守ることを想定した城だった様である。
出城の堀切→IMG_7914.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】https://maps.gsi.go.jp/#16/37.422194/137.243464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出城】https://maps.gsi.go.jp/#16/37.422773/137.242863/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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松波城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]

IMG_7770.JPG←景勝台西側の堀切
 松波城は、能登守護畠山氏の庶流松波畠山氏の居城である。1474年に能登畠山氏3代義統の3男義智が北能登の支配拠点として松波に入部し、松波城を築いたと言われる。以後6代、100余年にわたって松波一帯3800余貫を領した。松波畠山氏は代々常陸介を称し、5代義龍の時から松波氏を称した。1577年6月、七尾城から上杉謙信来攻の急報を受け、松波義親は家臣の生森長右衛門を城代として残し、自身は七尾城に向かって立て籠もった。しかし同年9月には遊佐続光の上杉方への内応により七尾城落城が免れ難いことを知り、弟丹波守義行・部将神保周防・河野肥前・熊木兵部らを引き連れて七尾城を脱出して松波城に戻った。攻め寄せた謙信の部将長沢筑前光国率いる700~1000余人の軍と激しい籠城戦を展開し、神保・熊木両名は討死し、義親も負傷したため自刃した。こうして松波城は上杉軍に攻略された。尚、義親の子連親は越後に母といたため無事で、長連龍に仕え、その子孫は加賀八家と呼ばれる加賀前田藩の重臣の一、長家の家臣として存続した。

 松波城は、松波漁港を間近に望む標高25mの丘陵東端部に築かれている。現在は解体されてなくなっているが、以前は主郭跡とされる平場に武道館が建っていたらしい。武道館建設時の改変・湮滅もあるのか、主郭背後に当たる西側には土塁・堀切などが見られず、どこまでが城域であったのか判然としない。主郭部分では、その東辺に石積みを伴った土塁が残っているのが唯一の明確な遺構と思われるが、これも中世の遺構にしては形が整いすぎており本当に遺構か疑問に思うところもある。主郭の東側には北に張り出した平場があり、その南東がニノ郭とされるが、ここもただの平場である。ただ外周には腰曲輪らしい平場が数段見られるので、曲輪であったことは間違いないのだろう。二ノ郭の東下方が三ノ郭とされ、ここに庭園遺構が発掘されているが、現在はブルーシートで覆われている(もう何年も前から同じ状態らしい)。三ノ郭東端には大手門跡の石碑が立っている。この東は堀切があったと思われるが、かつてのと鉄道が通っており(現在は廃線)、線路敷設のため大きく削られてしまったので、往時の規模は不明である。三ノ郭の北側には、この堀切沿いに土塁で囲まれた物見台の様な小郭がある。堀切の東側には、2つの高台(曲輪)が堀切を介して並んでおり、この城域先端部付近だけは城跡らしさが残っている。東側の先端郭が景勝台と呼ばれ、また「音川亭(鳳祥斎)址」の碑が立っている。ここも発掘調査中の様な感じだが、ブルーシートも掛けられず野晒しになっている。先端の2郭の周りには腰曲輪が築かれ、景勝台の北側には規模は小さいが横堀と土塁が築かれている。以上が遺構の状況で、松波城は守護家の一族の城であった割には縄張りがあまりにざっくりしすぎており、縄張りがよくわからない城というのが正直なところで、残念である。また発掘調査中のところは長年放置されているようなので、今後どうしていくつもりなのか、現状を見る限り不安を感じてしまう。
庭園跡の現況→IMG_7752.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.355132/137.238507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


大坂の庭園―太閤の城と町人文化 (学術選書)

大坂の庭園―太閤の城と町人文化 (学術選書)

  • 作者: 飛田 範夫
  • 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
  • 発売日: 2012/07
  • メディア: 単行本


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甲山城(石川県穴水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_7675.JPG←主郭切岸と空堀
 甲山城は、能登に侵攻した上杉勢が占拠した城である。天正年間(1573~92年)の始め、平楽(たいらく)右衛門尉が居城したと伝えられるが、一説には越後の平子(たいらく)氏の誤伝とも言われる。1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。甲山城も上杉勢に攻略され、上杉氏家臣の轡田肥後・平子和泉・唐人式部が城将として配された。1578年には、長連龍の穴水城奪回戦の際、穴水城を守る越後勢を救援するため、上杉方の管轄下にあった棚木・甲山両城から加勢の軍兵が船で穴水城に向かったと言う。謙信の急死後、上杉氏が弱体化すると、1579年に温井景隆・三宅長盛らが甲山城に攻め寄せ、城は落城し、轡田氏らは攻め滅ぼされた。その後甲山城は温井氏の管理下に置かれた。1580年、前田利家が能登を領すると、甲山城はその支配下になった。

 甲山城は、甲港の入江に面した標高約20mの丘陵の東端部に築かれている。城のすぐ南を県道34号線が通っており、県道脇の山林に足を踏み入れるとすぐに外郭の空堀が目の前に横たわっている。城域の北東角に土塁と空堀で台地と分断された主郭を置き、その周囲も曲輪としている。主郭は南辺に横矢のクランクを設けている。主郭周囲の曲輪は、いくつかの曲輪に分かれていたと思われるが、前述の県道脇の空堀が途中で埋まっており、その形状を明確に知ることはできない。そこでここでは一括して「外郭」と総称する。外郭の南から西にかけて空堀が残っており、西側はかなり埋もれて浅くなっているが、南のものはしっかりと残っており、横矢掛りの屈曲も明確である。この空堀は南中央のクランク部から北側にも分岐して伸び、ここにも横矢のクランクが設けられている。この他、北西部に櫓台を備えた空堀があり、虎口であったと推測されているようだが、薮がひどくて形状があまり明瞭には確認できなかった。甲山城は、この地域では珍しい、横矢掛りを多用した崖端城で貴重である。しかし残念ながら、城内は薮が多く歩きにくく、遺構の確認も少々骨が折れる。
外郭空堀のクランク→IMG_7703.JPG
IMG_7716.JPG←北西虎口の櫓台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.203569/137.025239/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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穴水城(石川県穴水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_7582.JPG←主郭から見たニノ郭
 穴水城は、七尾城主能登畠山氏の重臣長氏の居城である。長氏は、源平争乱期(治承・寿永の乱)に勇名を馳せて鎌倉幕府の御家人に列した長谷部信連を祖とする。信連は、源頼朝から能登国大屋荘を賜り、能登に入部した。その後、長谷部を長に改め、能登の有力国人となった。室町時代前期には将軍家奉公衆となり、能登守護家に対して独立を維持していたが、能登守護が吉見氏から畠山氏に変わると、やがて畠山氏の家臣となった。長氏の惣領家(九郎左衛門家)は鎌倉時代には輪島に本拠を置いていたらしいが、南北朝期に櫛比荘に移り、更に南北朝末期の8代正連の時に穴水城を築いて移ったとされる。以後穴水城は、21代連龍に至るまで長氏惣領家歴代の居城となった。戦国後期の1576年、能登に侵攻して七尾城を囲んだ上杉謙信は、七尾城を孤立させるために能登各地の城を攻略して配下の武将を配置した。穴水城も、城主長綱連が七尾城に詰めて不在であった間に落城させて、家臣の長沢筑前・白小田善兵衛を守将として置いたと言う。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、翌77年5月、綱連は穴水城奪還のためにこれを包囲した。しかし閏7月に謙信が再度能登に侵攻すると、綱連は囲みを解いて七尾城に戻った。綱連は親織田派で、弟の連龍を城外に脱出させて織田軍の救援を求めたが、遊佐続光・温井景隆・三宅長盛らは謙信の調略を受けて内応し、続光の手引きで城内に入った上杉勢は七尾城を攻略し、長氏一族一類百余人を悉く滅ぼした。ただ一人生き残った連龍は、織田信長の支援を得て御家を再興し、上杉方に奪われた穴水城の奪回戦を展開した。そして1578年8月、穴水城を攻略して奪回を果たした。その後も連龍は、一族の仇である上杉勢や温井景隆・三宅長盛ら畠山旧臣勢力と能登各地で戦いを続けて、織田方の尖兵として活躍し、遂に七尾城の温井氏らは信長に七尾城の明け渡しを願い出た。信長はこれを許して徳山則秀を能登へ下向させ、一方の連龍には鹿島半郡の領有を認めた。その後、能登一国は前田利家に与えられ、連龍は信長の命で利家の与力となった。これに伴って穴水城は前田氏の支城となり、1583年まで使用されていたことが古文書から確認される。しかしその後、役目を終えて廃城となった。

 穴水城は、穴水港に面した標高61.8mの丘陵上に築かれている。城の中心部は西に向かってY字に開いた地形にあり、真ん中が主郭、南西に伸びた舌状曲輪がニノ郭、北西に伸びた舌状曲輪が三ノ郭と思われる(現地標柱では、二ノ郭の下段を「伝三の丸」としている)。これらの曲輪には堀切がなく、段差だけで区画されている。またそれぞれ外周に腰曲輪を伴い、Y字分岐部の真ん中にも腰曲輪群が築かれている。ニノ郭下段の南東尾根には段曲輪群がある様だが、薮でよくわからない。主郭の北東には広い平場があり、『能登中世城郭図面集』では城主一族の屋敷地と推測している。この平場の北東は高台となり、曲輪群の平場が確認できるので外郭に相当するのだろう。東の尾根には浅い箱堀状の堀切が穿たれている。この他、主郭の南にも細長く張り出した南郭がある。穴水城は、有力国人・長氏の本城とは言うものの、居館的機能を主としたらしく、厳重な防御構造はあまり見られない。古い形態をそのまま戦国時代末まで引きずった城だった様である。なお、主郭・ニノ郭は公園化され、一部遊歩道もあるが、ほとんどの遺構は未整備の薮に埋もれてしまっている。主郭裏まで車で来れるのが救いである。
東尾根の堀切→IMG_7603.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.230140/136.914389/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


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七尾城 その2(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7516a.JPG←物見台の畝状竪堀
 七尾城には、2004年に訪れているが、当時は縄張りなどのネットの情報が少ない上に、私自身まだ山城初心者の頃であったので、散策路のある主要部以外は遺構を見逃していた。また相方が以前から七尾城に行きたがってこともあり、5月連休の石川城巡りの中で再訪をした。今回は主要部以外にも、支群と呼ばれる支尾根の曲輪群や、本丸裏の長屋敷、そして最大の目的である物見台にある畝状竪堀の踏査を行った。

 まず支尾根に築かれた支群で踏査したのは、城平支群と善谷支群、それと稗子畑支群である。城平支群と善谷支群は便宜上分けられているが、実質的には一つの尾根続きに築かれた曲輪群で、上部が城平支群、下部が善谷支群となっている。ここへ行くには、桜馬場から西側の、道が消失した斜面をトラバースしつつ降っていき、腰曲輪を経由して行くことができる。高さ5~10mもの大切岸が連発して出てくる曲輪群で、曲輪の規模も大きく、各所に土塁や石塁が残っている。城平支群と善谷支群だけで並の山城一つ分以上の規模がある。
 稗子畑支群は二の丸の西尾根にあり、温井屋敷の西斜面からわずかな踏み跡を辿って行くことができる。ここも数段の曲輪群で構成されているが、やはり高さ10m程の大切岸で上段・下段が分かれている。稗子畑支群へ行く途中の温井屋敷・二の丸の西斜面には石垣がいくつも残っている。また斜面から西側に突き出た物見台が2~3段程あり、そこにも石垣が組まれている。
善谷支群の大切岸→IMG_7094.JPG
IMG_7256.JPG←西斜面物見台の石垣

 本丸裏の長屋敷は、本丸との間を大堀切で分断して築かれた山上の砦である。この大堀切は山上の城址駐車場の目の前にある。私は大堀切から屋敷南の腰曲輪を経由して登ったが、案に相違して道は消失し、薮も酷い。長屋敷に登るなら、駐車場から屋敷北斜面の腰曲輪群を経由して行くのがよい。山上には南辺を土塁で防御した屋敷跡の広い平場と、その西側に物見や櫓があったと思われる高土塁が南北に伸びている。
長屋敷の高土塁→IMG_7437.JPG

 物見台は、百間馬場と呼ばれる城山展望台に通じる車道が、七尾城へ行く車道から西に分岐する地点のすぐ東にそびえている。台形状の曲輪で、外周に腰曲輪を1段廻らし、東の尾根に堀切を穿っている。城山展望台に通じる車道は、この堀切のすぐ北側を通っており、ここから小道が伸びている。物見台の曲輪には朽ちかけたベンチがあるので、以前はきれいに公園化されていたらしい。今も、今年行った限りでは薮払いされていた。ここの白眉は、なんと言っても外周に穿たれた畝状竪堀である。NHK-BSの『英雄たちの選択 謙信vs.信長 戦国最強は誰だ? ~真説・手取川の戦い~』で、千田嘉博先生がこの遺構を紹介していたので、ご覧になった方も多いと思う。物見台の東面から南面にかけて畝状竪堀が並んでおり、テレビ撮影されたせいか綺麗に薮払いされていて非常に見やすくなっていた。中規模の竪堀群が6本以上あり、見応えがある。この畝状竪堀については、七尾城救援に向けて急速に接近中の柴田勝家率いる織田軍との籠城戦に備えて、上杉謙信が改修したものとする説が提示されている。

 今回記載した遺構群は、いずれも藪漕ぎを厭わない様な山城中級者以上向けのものであるが、七尾城の凄さを語るには見ておいて損はない。ちなみに、本城から離れた物見台は別として、七尾城の主要な曲輪(山上の散策路が整備されている部分)とここに取り上げた支群・長屋敷を含めて、踏査時間として3時間を目標としていたが、遺構群の規模が半端なく、大切岸の登り降りも大変で、結局3時間半も掛かってしまった。

 場所:【城平支群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.008362/136.981852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【善谷支群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.009081/136.979771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【長屋敷】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.008550/136.985672/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【物見台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.007728/136.991293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)

戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/08/10
  • メディア: 文庫


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町屋砦(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_6934.JPG←畝状竪堀
 町屋砦は、町屋堡とも言い、西谷内城の支砦と伝えられている。国分左兵衛または岡部某が守将であったと言うが詳細は不明。桝形山砦と同様に畝状竪堀が構築されていることから、西谷内城の支砦であったものを越後上杉氏により改修されたものとの説が提示されている。

 町屋砦は、熊木川西岸に突き出た丘陵先端部に築かれており、砦の位置は標高100m、比高70m程である。丘陵頂部ではなく、やや低い先端部に築かれているのがミソで、熊木川沿いの街道を遠くまで見通せる位置にわざわざ場所を選んでいる。城までの道はないので、他の城歩きの先達のHPを参考にして、南西を通る車道の脇から尾根筋を越えてアプローチした。基本的に単郭の小城砦で、方形に近い形の主郭を置き、その前後を掘切で分断している。主郭内は数段の平場に分かれ、南西角に内桝形虎口らしい地形がある。南北の斜面には腰曲輪が築かれている。北斜面ではこの腰曲輪から畝状竪堀を落としている。桝形山砦は斜面に直接竪堀群を刻んでいるが、町屋砦では腰曲輪から竪堀群を落としているという違いがある。ここの畝状竪堀も桝形山砦と同様小さいが、藪が少ないので形状が分かりやすい。以上が遺構の概要で、畝状竪堀が見どころの城砦である。
主郭前面の堀切→IMG_6922.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.140751/136.813560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


 [カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」

 [カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」

  • 作者: 萩原さちこ
  • 出版社/メーカー: マイナビ出版
  • 発売日: 2018/09/14
  • メディア: 新書


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桝形山砦(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_6862.JPG←畝状竪堀
 桝形山砦は、歴史不詳の城砦である。西谷内城と7~800mしか離れておらず、畝状竪堀が構築されていることから、西谷内城の支砦であったものを越後上杉氏により改修されたものとの説が提示されている。

 桝形山砦は、標高120m、比高70m程の山上に築かれている。西谷内城の前面にそびえる山にあり、西谷内城を防衛するには絶好の位置にある。基本的には北・西・南の三方の尾根を堀切で分断しただけの簡素な構造の城砦だが、この手の小城砦にしては堀切はいずれも大きい。主郭は方形に近い形状の曲輪で、内部は南北2段に分かれている。主郭の南側には前面の堡塁となる二ノ郭があり、桝形形状の土塁が築かれている。二ノ郭の南側も堀切で分断されている。この城には前述の通り畝状竪堀があるが、主郭の東斜面に築かれている。竪堀の規模は小さいが、杉林が間伐されているので形状がわかりやすい。この他、主城から南にやや離れたところにL字状に堀切と土塁を築いた前衛の堡塁があり、南大手筋の防備を固めていたことがわかる。桝形山砦は小規模な城砦であるが、西谷内城の支砦と考えられるものとしてはこの他に町屋砦がある。いくつもの砦群を築いて防衛網を構築していたとなると、西谷内城が一国人領主の国分氏の城ではなく西谷内畠山氏の城であったとする説も説得力があると感じられる。
 尚、城までの道はないので、南麓から南尾根の取り付きやすいところに登り、尾根を登っていくしか方法はない。
主郭前面の堀切→IMG_6837.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.154571/136.815319/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)

戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/08/10
  • メディア: 文庫


タグ:中世山城
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西谷内城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_6643.JPG←三ノ郭虎口脇の張出しと水堀
 西谷内城は、西ヶ谷城とも言い、七尾城主畠山氏の家臣国分氏の居城である。一説には能登畠山氏の同族畠山家継(西谷内畠山氏)が在城したともされるが詳細は不明。天授年間(1375~81年)に、能登守護となった畠山氏によって西谷内の地頭として国分氏が置かれ、1430年に西谷内城が完成したと言う。その後、長綱連の家臣となった国分五郎兵衛が居城し、綱連に従って七尾城で上杉勢と戦った。藤津比古神社の1576年の棟札には「国分備前守慶胤」の名があると言い、これが五郎兵衛のことであろうか?またその名乗りから、西谷内国分氏は下総の名族千葉氏の庶流国分氏の流れであることが推測される。能登が前田利家の領国となるとその家臣となったらしく、1600年の前田利長による大聖寺城攻略の際に五郎兵衛は討死したと言う。但し、現在残る西谷内城の規模から考えると、一介の国人領主である国分氏の城ではなく、西谷内畠山氏の持城で、その城代として国分氏が置かれたとの説も提唱されている様だ。

 西谷内城は、比高30m程の丘陵地に築かれている。南に向かって緩やかに傾斜した土地全体を城域としており、城としては大型の部類に入る。大きく4つの曲輪群から構成された梯郭式の縄張りで、最上部に主郭、その下に二ノ郭群、更に南下方に三ノ郭群・四ノ郭群・外郭が置かれている。それぞれの曲輪群は、細かい段差で区切られた多くの平場で構成されている。主郭は2段の平場で構成され、上段は妙見堂跡とされ、西谷内国分氏が千葉氏の流れを汲む一族であった(少なくとも当時そう称していたであろう)ことがわかる。主郭と二ノ郭群の間は段差だけで区切られている。二ノ郭群は外周を方形に空堀と土塁で囲み南東角には櫓台を備えている。主郭虎口の手前に、城内通路に沿って土壇があり、小さな石積みが見られる。二ノ郭群内部はいくつかの平場に分かれるが、起伏が多く、形が判然としない。二ノ郭群の南の三ノ郭群は全体として半月形の形状で、やはり外周を土塁と堀で囲んでいる。中央に築かれた虎口の西側の堀は、比較的規模が大きく高低差もあり、虎口に対して横矢の張出しを設け、湧水があるらしく水堀となっている。一方、虎口の東側の堀は空堀で、規模も比較的小さい。三ノ郭群の東部にはいくつかの張出しが設けられ、その一部にはわずかな石垣跡が残っている。四ノ郭群は、中央に築かれた虎口が枡形虎口となっており、その東側に比較的幅の広い空堀が穿たれている。虎口両側には土塁が伸び、下方の外郭を見下ろせるようになっている。外郭は、内部に起伏が多い粗雑な作りであるが、内部に空堀が穿たれ、物見台らしい土壇も見られる。
 西谷内城は、城域は広いが、全体に起伏の多いざっくりした構成の城である。またかなり緩い傾斜地の城のため、堀と多数の曲輪群で防御を固めていたと見られる。雨降り後でもあったせいか、城内には湧水が多く、水には困らなかったことが想像される。解説板や遊歩道が整備されており、ある程度薮払いもされているので、訪城はしやすい。
主郭の妙見堂跡→IMG_6723.JPG
IMG_6767.JPG←四ノ郭の枡形虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.161676/136.812487/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 竹井 英文
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


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富木城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6618.JPG←城跡の現況
 富木(とぎ)城は、富来城とも記載され、上杉勢、織田勢が相次いで領したと言う城である。木尾嶽城の歴史に出てくるが、南北朝時代に富来俊行と言う武士がおり、この地域で活動しているので、富木城と関係していていた可能性がある。時代は降って1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。富木城には藍浦長門が城将として配された。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、富木城には誉田弾正・長十郎右衛門・杉原和泉・藤尾左近らが攻め寄せ、城将藍浦長門は自刃し、城は落城した。その後、謙信はすぐに能登に再侵攻し、ようやく七尾城を攻略し、能登は上杉勢に平定された。しかしこの歴史は富木城の近くにある木尾嶽城のものと全く同じであるので、両城の歴史が混同されたものか、それも2城が一体となって機能した別城一郭の城であったのか、どちらかであろうと思うが詳細はわからない。1581年に織田勢が能登を制圧すると、菅原館に前田利家、七尾城に菅屋長頼、そして富木城には福富行清が配された。しかしわずか5ヶ月後には、毛利攻めの進展に備えて菅屋・福富両名は信長の元に呼び戻され、能登は前田利家の領するところとなった。

 富木城は、標高22m、比高わずか15m程の低丘陵に築かれている。しかし江戸後期には既に開墾により遺構は湮滅していたということで、現在も畑地や薮となってるだけで明確な遺構は見られない。残っているのは地形だけという、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.150551/136.741827/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦う日本の城最新講座

図説 戦う日本の城最新講座

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2017/12/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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木尾嶽城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6545.JPG←二ノ郭から見た主郭切岸
 木尾嶽城は、南北朝動乱期の激戦地である。1346年の得江頼員軍忠状によれば、前越中守護井上俊清・同八条・新田貞員・栗沢政景・富来俊行らが能登に侵入し、富来院内の木尾嶽に立て籠った。北朝方の能登守護吉見頼隆の子氏頼を大将とした軍勢は木尾嶽に攻め寄せ、3月16日に攻撃を開始し、5月4日に木尾嶽を攻め落とした。1350年には観応の擾乱の余波で、井上俊清の同族と思われる井上布袋丸と富来俊行が足利直義方に付いて、富来院(おそらく木尾嶽)から鹿島郡花見槻へ打って出て、足利尊氏方の守護勢と交戦した。1362年には、5月と7月に木尾嶽城で戦闘があり、5月の合戦では富来斎藤次らが能登守護吉見氏頼の軍勢と戦って討ち取られ、7月の合戦では木尾嶽城が落城している。その後、時代は降って戦国後期の1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。木尾嶽城には藍浦長門が城将として配された。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、木尾嶽城には誉田弾正が攻め寄せ、城将藍浦長門は自刃、足軽大将の寺崎政国は敗走中に討ち取られ、城は落城した。その後、謙信はすぐに能登に再侵攻し、ようやく七尾城を攻略し、能登は上杉勢に平定された。

 木尾嶽城は、標高130m、比高120mの城ヶ根山に築かれている。城跡近くまで背後の尾根に山道が南北から通じており、私は南の山道を車で登ったが、途中で山道の路盤が崩れており、普通の乗用車では進めなくなったので、途中からは歩いて城まで行った。背後の尾根を進むと、3本の小堀切が確認できる。しかしかなり浅いもので、大した防御性は感じられない。城は頂部に主郭を置き、背後の鞍部から北側を回って主郭周囲を半周する様にニノ郭が築かれている。主郭には櫓台があり、薮が伐採されているので眺望に優れている。また主郭・二ノ郭の西側斜面には数段の腰曲輪が段状に築かれ、土塁と虎口らしいものも確認できる。南斜面の腰曲輪には礫石も散乱している。この他、背後の尾根を少し西に行ったところの北斜面に、殿様池という湧水もある。遺構としては以上で、戦国後期まで使われて戦闘が繰り広げられた城にしては、かなり単純かつ小規模な城である。
腰曲輪の虎口と土塁→IMG_6560.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.148388/136.754079/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記の群像  南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 森 茂暁
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2013/12/25
  • メディア: 文庫


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末吉城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6437.JPG←主郭背後の堀切
 末吉城は、堀松城とも言い、七尾城主能登畠山氏の直轄支城である。創築は応永年間(1394~1427年)のこととされるが、完成したのは応仁の乱後の1477年と言われる。応仁の乱後に帰国した能登畠山氏3代義統は、堀松庄の領国化を図り、能登口郡北部の外浦地区を防衛する為に末吉城を完成させたと考えられている。城将は、最初は畠山氏の家臣平(ひらか)氏(或いは手筒氏とも伝えられる)であったが、1554年に遊佐続光が叛乱した際、遊佐勢5000に攻撃されて末吉城は落城した。その後は、守護畠山義続の家臣河野藤兵衛続秀が城将となり、天正年間(1573~92年)には河野肥前が城将となった。1576年に上杉謙信が能登に侵攻した際にも、上杉勢の攻撃によって再び落城し、河野肥前は討死したと推測されている。時代は不明であるが、畠山氏の一族松波丹波守義行が城将となったこともあったらしい。その後、前田利家が能登を領すると、重臣の中川家範が末吉城に置かれたと言う。廃城時期は不明。

 末吉城は、標高53.8mの城山に築かれている。しかし主郭は頂部ではなく、峰から南西に伸びた尾根の先端に築かれている。現地解説板の縄張図によれば、主郭の背後を堀切で断ち切り、背後の尾根上に延々と平場を設けた広域の城としている。大手は西来寺の脇にあり、奥に散策路が伸びている。山林入口に大手虎口があり、櫓台が右手に築かれている。櫓台の奥は高台上の平場群となっている。大手道を少し奥に進むと、枡形虎口が形成されている。しかし虎口の正面にも竪堀が穿たれていて、囮虎口か何かだったかもしれない。枡形を通って丘陵地を登っていくと、二ノ郭の平場に達する。その西側にそびえているのが主郭である。主郭は方形に近い形状の曲輪で、郭内は北東に向かって上り勾配となっており、北東隅に櫓台が構築されている。その北側には、前述の通り堀切が穿たれている。この堀切は薬研堀ではなく箱堀状で、二ノ郭と繋がっているので、二ノ郭の一部としても機能していたと考えられる。二ノ郭の東側には谷戸状の平場があり、馬場とされている。主郭背後の尾根にも散策路が通っており、三角点のあるピークが狼煙台・物見台とされている。狼煙台跡は「土塁囲みで希少価値の高い城郭遺構」と解説板に記載されているが、残念ながら四阿の設置でよくわからなくなってしまっている。尾根上は自然地形が多いが、所々に段曲輪や土塁・虎口らしい地形が確認できる。光念寺の奥に観音堂と高宮が鎮座し、ここが搦手だったとされ、尾根上の散策路を歩くと、ここに降りてくる。末吉城は、交通の要衝を押さえる重要な城ではあったが、遺構を見る限り堅固に固めた大規模な城ではなく、比較的少数の兵で街道の監視を主任務とする城だった様である。
大手道の枡形虎口→IMG_6420.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.012200/136.785042/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城を攻める 城を守る (講談社現代新書)

城を攻める 城を守る (講談社現代新書)

  • 作者: 伊東 潤
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/02/19
  • メディア: 新書


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館開城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6301.JPG←西斜面の竪堀群
 館開城は、徳田城とも言い、この地の土豪得田氏の詰城である。得田氏は、鎌倉時代には幕府の御家人で、得田館に居住していた。以後、戦国時代まで続いた武家で、室町時代に畠山氏が能登守護となると、その家臣となった。館開城の城主は得田佐渡守であったとも伝えられる。1576~77年にかけての上杉謙信の能登侵攻の際、得田秀章・章種父子は鹿島郡荒山で討死したと言う。

 館開城は、比高わずか30m程の城山に築かれている。城山の南に西から入り込んだ谷戸があるが、ここに小道があり、城の南の尾根まで通じている。この谷戸はおそらく大手で、内部にある平場には小屋などが建っていたと思われる。城は、頂部に南北2郭を堀切を介して並べており、南が主郭、北がニノ郭となっている。主郭の南辺に土塁が築かれ、南東に虎口が築かれている。主郭と二ノ郭の間には幅広の土橋が架けられている。二ノ郭の北側下方には堀切を介して三ノ郭が置かれている。また主郭の周囲にも堀切を介して西郭・南郭・東郭が置かれている。便宜上「郭」と呼称したが、これらの出曲輪はしっかりした削平はされておらず、堀切前面の櫓台的な作りである。主郭の南側から西側、更に二ノ郭の西側までにかけては腰曲輪が築かれ、主郭の南西斜面と西斜面に何本かの竪堀群が落ちている。ネット上ではこれを「畝状竪堀」と呼んでいるものもあるが、「畝状」と言うほどの本数はなく、二重竪堀・三重竪堀程度である。しかもこれらの竪堀は幅広で、箱堀状になっているのが特徴的である。またこの城で出色なのは、南尾根から主郭虎口まで至る動線構造である。南尾根の側方に築かれた腰曲輪を経由して主郭南の堀切に至り、ここにT字に交差している主郭南東の堀切が堀底道を兼ねていてそこを登り、ようやく左手に主郭虎口が現れる。この間、城道は常に左手にそびえる主郭塁線上からの攻撃を受け、また反対の右手側にも出曲輪の櫓台がそびえ、そこからの攻撃にも晒されるという巧妙な枡形虎口となっている。この他、南尾根に小堀切が穿たれて城域が終わっている。館開城は大きな城ではないが、竪堀群と堀底道への攻撃構造が巧妙で面白い。
西郭~主郭間の円弧状堀切→IMG_6285.JPG
IMG_6327.JPG←二ノ郭から見た堀切と主郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.048961/136.827571/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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石動山城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6203.JPG←主郭外周の横堀と帯曲輪
 石動山城は、山岳信仰の霊山として栄えた石動山院内に築かれた山城である。1576年、能登制圧のため七尾城攻略を進める上杉謙信が、七尾城の背後を押さえる為に築き、重臣の直江大和守景綱を守将として置いたと伝えられる。翌77年、謙信は石動山大宮坊に本陣を置いて七尾城を攻撃したが、有名な9月十三夜の詩「霜は軍営に満ちて秋気清し・・・」はこの城で詠じたものと言われる。1582年6月、織田信長滅亡後に寺領奪還を目指す石動山宗徒と信長の部将前田利家との間で戦闘が行われ、荒山城攻略の翌日、前田勢は石動山院に攻め入り、一山に火を放った。栄華を誇った石動山寺坊約300坊の堂塔伽藍はことごとく焼き尽くされ、石動山城もその役目を終えたと考えられる。

 石動山城は、石動山の奥の院「大御前」の峰から南東へ鞍部を一つ挟んだ、標高520mの峰に築かれている。国の史跡に指定されている石動山の中にあるので、遊歩道が整備されていて訪城は容易である。山頂に台形状の主郭を置き、周囲に腰曲輪を廻らしている。主郭の北東と北西の2辺には低土塁が築かれ、また主郭の東から北東辺にかけては切岸下に横堀が穿たれて、その外周に帯曲輪が置かれている。この横堀は、北西端までそのまま腰曲輪を貫通して堀切っており、外側の腰曲輪北端は物見台となっている。また、南東・北東・西の三方に伸びた尾根上に段曲輪を築き、北東尾根では先端に竪堀・堀切を穿っている。城としては簡素な作りの小城砦であるが、石動山院の詰城的な位置付けから考えて、機能的にはこれで十分であったのだろう。
北東尾根先端の堀切→IMG_6180.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.964518/136.974471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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荒山城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6023.JPG←二ノ郭から見た主郭
 荒山城は、荒山砦とも言い、石動山衆徒と織田勢が戦った荒山合戦の舞台となった城である。元々は、1577年に七尾城主能登畠山氏が、上杉謙信の侵攻に備える為に築いたと言われている。謙信は七尾城を攻略すると、荒山城にも守将を配置した。1582年6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、石動山衆徒は寺領の奪回を目指して越後の上杉景勝に支援を求め、信長の部将前田利家を討とうと動き出した。そして畠山氏旧臣の温井備中守景勝・三宅備後守長盛と共に、荒山砦に立て籠った。利家は、柴田勝家と佐久間盛政に加勢を頼み、佐久間勢が2500の兵で山麓の高畠に着陣すると、利家は長連龍を七尾口へ向かわせ、自身は3000の兵を率いて柴峠に出陣し、宗徒側の軍勢の分断を図った。宗徒側は荒山城の出城を構築している途中で、前田勢は温井・三宅軍を急襲し、これを破った勢いに乗じて荒山城を攻め落とし、阿弥陀院俊慶・大和坊覚笑ら多数の宗徒が討死した。これを荒山合戦と言う。この合戦に勝利した前田勢は、翌日石動山院に攻め入り、一山に火を放った。こうして栄華を誇った石動山寺坊約300坊の堂塔伽藍はことごとく焼き尽くされた。

 荒山城は、標高486mの桝形山に築かれている。かなり高所に位置しているので、360度の眺望に優れる、まさに天空の城である。富山湾まで一望でき、立山連峰も見渡すことができる。山頂に台形状の主郭を置き、東面以外の外周に腰曲輪状の二ノ郭を廻らし、更に北尾根・北西斜面・東尾根に段曲輪群・腰曲輪群を築いている。特に北尾根の段曲輪群はそれぞれの曲輪の面積が大きく、曲輪の数も多い。城内通路を兼ねたと思しき小堀切も確認できる。北西斜面の曲輪群の中に竪堀の様な溝地形も見られる。しかし全体的には、基本的には堀はあまり構築されておらず、尾根や斜面に曲輪群を連ねた多段式の山城であった様である。現在は公園として整備されており、近くまで車道が伸び、遊歩道も整備されているので、訪城はたやすい。但し、主郭周辺と北西斜面以外は薮である。
 尚、石動山に繋がる東尾根にも堀切や折れを伴う通路などがあるらしいが、薮が多く見逃した。
北西斜面の腰曲輪→IMG_6014.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.954710/136.944945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


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【速報】山形で新たな山城を発見しました [城郭よもやま話]

つい先日、山形の山城巡りに行ってきました。
その中で、金山町で未発見だった山城を発見しました!

詳細は後日レポートしますが(記事の順番からすると多分半年ぐらい先ですが・・・)、
主郭背後には二重堀切があります。
それより驚いたのは、主郭の両翼(南北)の斜面に
おびただしい数の畝状竪堀がびっしりと築かれていたことです。
南面はざっと数えて24本もの竪堀が穿たれていました。
山形県内では、トップクラスの数です。

山形はもうすぐ雪で閉ざされてしまいますので、
興味のある方は早めに行ってみてご確認ください。

尚、登山道はありませんが、比高60m程の里山なので、
取り付きやすい南東の斜面から直登するのが手っ取り早いです。

(仮称)荒屋楯
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.882181/140.329292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

IMG_4875.JPG←荒屋楯の畝状竪堀
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坪井山砦(石川県宝達志水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5727.JPG←外周の横堀
 坪井山砦は、坪山砦とも呼ばれ、末森合戦の時に佐々成政が本陣を置いた陣城である。元々は七尾城を本拠とした能登畠山氏の勢力が築いた砦とされる。一説には、畠山七人衆と呼ばれる重臣層に追放されて近江に亡命していた畠山義綱が能登入国を図るのに備えて、1567年に七尾城方の温井・三宅一族が坪井山砦を築いたとも言うが、遺構を見る限りではこの所伝には少々疑問を感じる。1584年、加賀能登を領する前田利家の領国を分断するため、佐々成政は末森城攻略を図った。ここに名高い末森合戦が生起した。その詳しい経緯は末森城の項に記載する。成政は、坪井山に本陣を置いて末森城に猛攻を掛けた。しかし利家の迅速果敢な後詰め戦により、搦手を突破されて城兵との合流を許してしまった。勝機を失った成政は、敵地での長い補給線と退路の確保を考慮して、本陣を引き払い越中に撤退した。

 坪井山砦は、標高約50mの低丘陵に築かれている。丘陵東麓に白山神社があり、その脇から小道が付いているが、途中で道が消えるので、とにかく西に向かって進んでいけば砦に到達する。砦は長円形をしており、東端に大手虎口を設け、外周に帯曲輪または横堀で防御している。西端にも搦手虎口があり、堀切を穿ち土橋を架けている。また北側に出曲輪があり、基部は主郭外周の横堀と兼用した堀切で分断している。一応この様な遺構は見られるが、普請は非常にささやかなもので、臨時的な陣城と言う色彩が強い。同じ陣城でも、例えば韮山城付城群等に見られるような複雑な構造は見られず、普請は極めて小規模である。それは、末森合戦が短期決戦を主眼とした奇襲攻撃であり、長期滞陣をする意図が最初からなかったからなのだろう。越中から国境を越えて出撃してきている佐々勢にすれば、長期攻囲戦になった時点で兵站の問題から撤退を余儀なくされる乾坤一擲の作戦であったことがうかがわれる。
大手虎口→IMG_5696.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.793804/136.759894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


佐々成政 (人物文庫)

佐々成政 (人物文庫)

  • 作者: 遠藤 和子
  • 出版社/メーカー: 学陽書房
  • 発売日: 2010/04/05
  • メディア: 文庫


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御舘館(石川県宝達志水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5681.JPG←外郭南東部の横矢の張出し
 御舘館は、歴史不詳の城館である。岡部六弥太忠澄の後裔を称する、口能登の岡部氏一族の居館との伝承もあるが、確証はない。発掘調査の結果では、御舘館の存続年代は、南北朝時代から室町時代及び戦国時代であり、14世紀後半~15世紀前半と16世紀後半の二時期に盛期を持つと推測されている。

 御舘館は、杓田川北岸の比高10m程の段丘の南の縁に面して築かれた城館である。基本的には方形館で、コの字型の二重の堀で囲まれた梯郭式の縄張りとなっている。内郭は土塁がなく、堀だけで囲まれているが、南西角のみ櫓台が築かれている。また外郭は帯曲輪状でコの字状に廻らされ、東側では広幅の曲輪となり幅のある土塁を築いて防御している。しかも南東部だけ横矢の張出しを設け、更にその南端部は堀が台地の縁に沿って内側に入り込んでいる。東側に向かって防御を固めているが、これは館の東側に加賀・能登を結ぶ街道が通っていたからだと思われる。この他、現在は遺構がないが、発掘調査の結果では東と北にも更に曲輪があったらしい。御舘集落に隣接した山林の中に、奇跡的に明確な遺構が残る謎の城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.802378/136.767683/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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龍ヶ峰城(石川県津幡町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5559.JPG←三ノ郭から見た主郭
 龍ヶ峰城は、加越国境城砦群の一である。北陸道を扼する要衝に位置しており、最初は加賀一向一揆が築いたと考えられている。1573年の上杉謙信の越中侵攻の際には、一向一揆に加担する土豪村上右衛門が在城していたが、上杉勢に攻略された。その後、織田信長の勢力が北陸に伸びると、越中を与えられた佐々成政の属城となった。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の金沢城主前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に使用された城である。成政は、龍ヶ峰城に佐々平左衛門を配置して前田勢に備えた。1585年、利家の弟前田秀継・利英父子の攻撃を受け、数度の戦いの後、前田勢によって攻略された。

 龍ヶ峰城は、標高194.5mの城ヶ峰に築かれている。城のすぐ直下には旧北陸道が通っており、城の役割がよく分かる。現在城跡は公園化されており、堅田城と同様に、ここもほぼ全ての遺構が見て回れる様に遊歩道が整備されている。山頂に狭小で細長い主郭を置き、その南斜面に三ノ郭などの腰曲輪群を段々に築いている。また主郭から北に細尾根(実質的な土橋)で繋がった小さな二ノ郭を配置し、二ノ郭の北東と北西に小郭を配置し、北尾根に2つの堀切と小郭群、北西尾根にも堀切と物見台を築いている。主郭・二ノ郭の東斜面にも腰曲輪群を配置し、眼下の北陸道を監視している。以上が遺構の全容で、大きな城ではなく、大した兵数も籠められそうにない。少数の兵で街道を押さえる任務を負った城だったのだろう。
北尾根の曲輪群→IMG_5585.JPG
IMG_5618.JPG←旧北陸道から見た龍ヶ峰城

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.662360/136.796908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


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鳥越弘願寺(石川県津幡町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5537.JPG←北西角部の土塁
 鳥越弘願寺は、一向一揆が築いた寺院である。寺とは言うものの、一向宗の総本山であった石山本願寺(後の大坂城)がそうであった様に、鳥越弘願寺も実質的に「鳥越弘願寺城」と呼んで差し支えない規模の城郭寺院である。1350年に本願寺3世の法主覚如の弟子玄頓によって創建されたと言われる。北加賀における一向宗の最初の拠点と考えられており、1488年の加賀一向一揆の頃には城塞化されていたらしい。その後、1580年に織田勢が加賀に大軍で侵攻した際、織田信長の部将佐久間盛政は能登末森城攻略に向かう途上、弘願寺を陣営にしようとしたが断られた為、弘願寺を焼き払ったと伝えられている。江戸初期の1609年、弘願寺は津幡町加賀爪に移転したと言う。

 鳥越弘願寺は、前述の通り「鳥越弘願寺城」と言うべきもので、大国主神社の周囲に高さ5m以上もある大土塁が残っている。神社のある平場は御屋敷跡と言われ、大土塁は神社の北・西・南にコの字状に残っている。特に北側の土塁は一段高くなっており、また土塁の上部は平坦になっていて、塀や櫓などの構造物が建っていたと推測される。また神社の南東にも、東西60m以上の長さの大土塁が残っている。現在の形状から推察すると、往時は寺の四周を大土塁で囲んでいたのだろう。尚、南の土塁上には、町の天然記念物の巨木が2本あり、小さな墓地もある。鳥越弘願寺は、遺構としては土塁だけで、しかもそのほとんどが薮に埋もれてしまっている。不覚にもコンタクトレンズをまた無くしてしまい、私には因縁の城ともなってしまった。
南西角の土塁→IMG_5517.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.689293/136.776030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/09/15
  • メディア: 単行本


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堅田城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5425.JPG←北西斜面の畝状竪堀
 堅田城は、歴史不詳の城である。木曽義仲の砦との伝承があるが、元より当てにはならない。発掘調査の結果では、山麓居館らしい堅田B遺跡は鎌倉時代のものと推測され、堅田城はその縄張りから戦国後期の姿を留めるとされる。加賀一向一揆が築いたとの説もあるが、この城には畝状竪堀が構築されており、加賀の城で畝状竪堀というのは極めて特異であり類例もない。一方で能登にある畝状竪堀の城は越後上杉氏勢力による改修とされていることから、堅田城も何らかの形で上杉氏勢力が介在した城ではないかと個人的に推測している。

 堅田城は、標高113.1m、比高100m程の山上に築かれている。南麓に小原越、西に北陸道が通る交通の要地にある。現在、市の史跡に指定されており、主要部は公園化され、遊歩道も整備されているので訪城はたやすい。山頂に不定形で横長の主郭を置き、その西から南に向かって張り出した舌状部に二ノ郭・三ノ郭を築いている。主郭西端には櫓台があり、ニノ郭を見下ろしている。主郭内部は北側に大きくえぐれた低地部分があるなど、起伏がある。ニノ郭は上下2段の平場に分かれている。また主郭の東には東郭があり、南には南郭が築かれている。これが城の中心部で、この中の曲輪はいずれも段差だけで区切られている。この中心部を取り巻くように腰曲輪と武者走りが外周を廻り、西・南・南東・北に派生する尾根に堀切を穿ち、西尾根以外ではそれぞれ尾根上の曲輪の先に更に堀切を穿って分断している。南東の外側の堀切のみ、中央に土橋が架かっている。主郭背後に当たる北側だけは、鋭い大堀切となっている。3つの尾根の内側の堀切は、前述の腰曲輪や武者走りに通じており、城内通路としても機能していたことがわかる。この城で出色なのは、前述の通り畝状竪堀が穿たれていることで、北西斜面と北斜面に大型の畝状竪堀が刻まれている。この他、南西の尾根を登ったところには虎口が築かれ、両翼にそびえる平場から攻撃を受けるようになっている。遺構は以上の通りで、遺構は完存し、薮払いもされ、しかもほぼ全ての遺構が見て回れる遊歩道が整備されていて、素晴らしい。
主郭の櫓台→IMG_5383.JPG
IMG_5447.JPG←主郭背後の大堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.612496/136.706636/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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朝日山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5324.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 朝日山城は、加越国境城砦群の一である。一説には、1573年に上杉謙信が加賀一向一揆の拠る朝日山を攻めたとも言われるが、確証はない。朝日山城がはっきりと姿を表すのは1584年のこととされる。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の金沢城主前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。朝日山城は、田近越(田近道)を押さえて、佐々方の一乗寺城と対峙する前田方の城であったと推測されている。利家が成政の攻撃に備えるため、家臣の村井長頼に築城させたと言うのが一般的であるが、築城中に佐々勢の攻撃を受けて一時占拠されたとも、或いは佐々勢が築城したものを村井勢が奪って改修したとも伝えられ、築城の経緯には不明点が多い。

 朝日山城は、標高190mの丘陵上に築かれている。西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を一直線に連ねた連郭式の縄張りで、主郭と二ノ郭の間は堀切で分断し、周囲には腰曲輪を一段廻らしているだけの簡素な縄張りである。昭和50年代から、城の周囲では採土が進められ、現在でも城の間近まで荒涼とした景色が広がってしまっている。採土は主郭のすぐ西側まで迫っていたものを、金沢市教育委員会の行政指導によって危うく破壊を免れたと言うが、見る限りでは主郭・二ノ郭の南面も削られて、地山の断面が見えている。一応、主要な遺構は残っており、主郭~二ノ郭間の堀切や、北側の腰曲輪ははっきりと残っている。しかし主郭も二ノ郭も耕作放棄地らしく、低い薮で覆われていて酷い有様だが、幸い見通しが効くので、一応の遺構の確認は可能である。『日本城郭大系』の縄張図を見ると二ノ郭と三ノ郭の間にも堀切がある様だが、現在は切岸だけで区画され、堀切は確認できなかった。これは、三ノ郭上面が削られた可能性もあるだろう。遺構が残っているとは言え、とにかく無残な姿を晒しており、残念と言う他はない。
主郭北側の腰曲輪→IMG_5340.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.628478/136.763091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


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切山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5089.JPG←主郭西側の出枡形
 切山城は、加越国境城砦群の一である。金沢城主前田利家の支城の一つであったと考えられている。また一説には不破彦三が城主であったと伝えられるが、それが前田家家臣の不破直光のことなのか、それともその父光治のことなのか、よくわかっていない。
 本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。切山城は、越中側に大きな堀を設けていることから、小原越(小原道)を押さえ、佐々方の松根城と対峙する城であったと推測されている。また発掘調査の結果、城域北東端の堀によって小原越が切断されていることが判明しており、城が街道を戦時封鎖していることを遺構で確認できた初めての事例とのことである。

 切山城は、標高139m、比高100m程の丘陵上に築かれている。現在、松根城とともに「加越国境城跡群及び道」として国の指定史跡となっている。しかし国指定なのに城まで至る道には誘導標識や看板が全くなく、ちょっと不安になってしまった。一応、城の北東に駐車スペースと史跡石碑・解説板が設置されているが、特に散策路はなく、遺構の標柱も設置されていない。中世城郭の城歩きに慣れていない人には、ちょっと難易度が高い。
 城は、不等辺五角形の主郭を中心に、周りに腰曲輪状のニノ郭を廻らし、西尾根に2本の堀切と数個の曲輪を配置し、北東には小原道を監視する外郭が築かれている。この城で出色なのは主郭周囲の構造で、全周を低土塁で囲んだ主郭に対し、西側の大手虎口は出枡形を設けた二重枡形虎口を構築し、北東には主郭と堀切で分断し土橋で連結した角馬出しを築いている。また主郭南角にはニノ郭に突出した櫓台を設けている。櫓台の下方は薮だらけなのでわかりにくいが、ニノ郭に侵入した敵に対する攻撃点であると同時に、下方を通る小原道をも攻撃できる絶好の位置にある。ニノ郭の北東は緩斜面となっていて、そのまま外郭に至る。外郭は笹薮に覆われているので構造がわかりにくいが、土塁や櫓台らしい高まりが確認できる。コンパクトでシンプルな縄張りの城であるが、桝形虎口や角馬出しなど見応えがある。但し、二ノ郭の南・東と外郭は薮がひどい。今後の整備に期待したい。
主郭南角に突出した櫓台→IMG_5075.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.600542/136.745131/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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柚木城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4973.JPG←主郭~二ノ郭間の土橋・堀切
 柚木城は、歴史不詳の城である。現地解説板によれば、尾山御坊と越中を結ぶ最短経路(三の坂道)の途中に位置しており、16世紀後半に築かれた城と推測されている様だ。

 柚木城は、標高200m、比高80mの山上に築かれている。城跡は現在、直江谷健康の森の一部となり歴史広場として整備されているので、迷うことなく訪城できる。多数の曲輪群で構成された城で、頂部に縦長の長方形の主郭を置き、北東の斜面に二ノ郭群を築いている。主郭は南西隅に櫓台を設け、西辺に低土塁を築いている。二ノ郭群は3段の平場で構成され、主郭との間に堀切を穿ち、南端に土橋を架けている。二ノ郭群の両側には腰曲輪が築かれ、主郭との間の堀切は北側の腰曲輪に繋がっている。二ノ郭群の下には横堀が廻らされ、防御線を築いている。この横堀は二ノ郭群の右側面まで伸びている。横堀の外周にも緩斜面の曲輪があり、北東の尾根には小堀切も見られる。二ノ郭群右側面の横堀の外には、登城道を兼ねた帯曲輪があり、その先に虎口が築かれて、主郭・二ノ郭間の土橋脇の虎口郭に至る。この虎口郭は主郭東側の腰曲輪にも繋がり、最上段には南と東に低土塁を築いた東郭がある。ここから南東に伸びる尾根に小郭群が連ねられ、尾根先端に物見のような平場が築かれている。以上が遺構の概要で、柚木城は薮も少なく、遺構が明瞭で見応えがある。遺構を見る限り、織田氏勢力の介在はなかったらしく、織田勢の加賀制圧以前に機能していた城と考えられる。
二ノ郭群下方の横堀→IMG_4982.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.569166/136.758800/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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