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鷹巣城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_2989.JPG←空堀に挟まれたニノ郭の土橋
 鷹巣城は、織田勢力が加賀を制圧した頃に歴史に現れる城である。1576年の城主は平野神右衛門と伝えられるが、翌77年平野氏は越後に赴き、上杉謙信に属したと言う。これは謙信が手取川合戦で柴田勝家率いる織田軍に圧勝した年で、謙信の能登攻略、加賀一向一揆との和睦等と連動した動きであったろう。1580年、御館の乱で越後上杉氏が弱体化した隙を突いて、織田軍はようやく加賀を制圧し、信長の部将佐久間盛政が尾山御坊を攻略して金沢城として築き直して城主となると、家臣の柘植喜左衛門・郭賀八矢・松本我摩久順次が鷹巣城の守将となった。また一説には、柴田勝家が家臣の拝郷家嘉を入れて守らせたとも言われる。1582年に信長が本能寺で横死すると、明智光秀を討った最大の殊勲者羽柴秀吉が織田政権の実権を掌握した。その後の織田家家臣団では親秀吉派と反秀吉派が争い、1584年(『日本城郭大系』が載せる『石川県史』では1585年のこととするが、末森合戦のあった1584年の間違いであろう)、反秀吉派であった越中の佐々成政は、親秀吉派の前田利家の領国加賀・能登へ大挙侵攻し、鷹巣城も攻撃されたが、前田利家が出張って撃退したと言う。

 鷹巣城は、辰巳ダム東方にあり、谷戸に挟まれた標高245mの丘陵上に築かれている。城内南西辺には山道が貫通しており、一部遺構が破壊されているが、ほとんどの遺構は無傷で、しかも南東麓からこの山道を使って車で城付近まで来ることができるので、訪城はたやすい。主郭を中心に、扇状に曲輪を南東側に展開した梯郭式の縄張りとなっている。西から順に笹曲輪・主郭・ニノ郭と並び、二ノ郭の北に三ノ郭が置かれ、ニノ郭と三ノ郭の外側に四ノ郭が築かれている。それぞれの曲輪は堀切・空堀で分断防御され、主郭・ニノ郭・三ノ郭には土橋が架けられている。ニノ郭・三ノ郭の土橋は、ぞれぞれ直交する空堀に挟まれた形で構築されており、横にそびえる曲輪の塁線上から攻撃できる様になっている。各曲輪の堀の中では、二ノ郭外周の空堀が最も規模が大きく、内側の土塁と相まって大きな防御性を発揮していたと思われる。また二ノ郭空堀の南端には横矢のクランクが設けられている。四ノ郭の外周にも土塁と横堀が延々と構築され、大きな横矢のクランクや張出し櫓台も構築されているが、外周の空堀は規模が小さめである。また笹曲輪・主郭・三ノ郭の北斜面にも横堀の防御線が築かれ、笹曲輪先端まで掘り切っている。この他、城の主要部から山道を挟んで西の斜面にも腰曲輪群や横堀が築かれ、下方の西に張り出した曲輪の基部には堀切が穿たれている。遺構としては以上で、ニノ郭・三ノ郭・四ノ郭は直線形の堀を基本に要所で横矢を掛ける構造で、織田氏勢力の築城法の一つの典型と見做されている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.496907/136.720541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


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萩生城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2904.JPG←主郭外周の空堀
 萩生城は、大戸城(手子丸城)の支城である。大戸浦野氏の家臣小林石見が在城していたと伝えられる。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、元武田領国の支配権を狙って北条氏直の侵攻が始まった。神流川合戦で織田氏部将の滝川一益を駆逐した北条氏は上野全域の支配を目指し、吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まった。真田方であった大戸城主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。この戦いの中で、萩生城も北条勢に攻略され、小林石見は没落したと言う。

 萩生城は、境野集落に北側に隣接する比高30m程の舌状に伸びた低丘陵の中程に築かれている。城のすぐ東側には旧草津街道が切り通し状に貫通しており、街道を押さえる要害として機能していたことが伺われる。方形に近い形状の主郭を中心に、周囲に空堀を廻らし、前後にニノ郭・三ノ郭を設け、更に北西から北側を巡って南東まで空堀を廻らした縄張りとなっている。従って、主郭の北東側では二重横堀となっており、2つの横堀間には土塁が延々と伸びている。主郭は畑となっており、前述の旧草津街道から畑まで小道が伸びているので、訪城はたやすいが、主郭には無断では進入できない。主郭の北東側ははっきりとした二重横堀となっているが、南西側は改変されているのか、内側の空堀も一部を除いて腰曲輪状になっており、やや遺構が不明瞭になっている。主郭北西の三ノ郭(『境目の山城と館 上野編』の縄張図では郭4としている)の前面には土塁が築かれ、その前には尾根を断ち切る様に二重横堀の外堀が掘り切っている。その先の北西尾根はほとんど自然地形であるが、途中に2本の堀切が穿たれている。一方、南東の尾根は改変を受けているらしく、二ノ郭の南側などはわずかな段差しか残っていない。萩生城は、二重横堀で防御を固めているものの横矢掛かりは見られず、素朴な形態の城である。少々薮が多いのが難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.487868/138.776293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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坂本城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2814.JPG←主郭群とニノ郭群を分断する堀切
 坂本城は、歴史不詳の城である。『安中史』に甘楽大夫朝政なる者の城と記載されるというが、元より当てにはならない。どちらかと言えば、中山道を押さえる愛宕山城を側面援護するために、武田氏か北条氏によって取り立てられた城の様に推測される。

 坂本城は、碓氷湖の南東にそびえる標高640m、比高120m程の山上に築かれている。坂本ダムの南にそびえている山で、碓氷湖周辺の遊歩道の脇から北西の尾根に取り付けば、そのまま尾根伝いに城まで行くことができる。山上に中規模の堀切で分断された主郭群とニノ郭群を並べた一城別郭式の縄張りとなっている。主郭群もニノ郭群も最上段を北端に設け、やや傾斜の緩い南斜面に数段の腰曲輪群を築いている。最上段の主郭とニノ郭の北辺には低土塁が築かれ、風除けを兼ねたものと推測されている。主郭群とニノ郭群を分断する堀切は、南に長い竪堀となって落ち、下端で弓形状の腰曲輪に繋がっている。この他、二ノ郭群の北西尾根には二重堀切が穿たれ、更にその下方にも小堀切が穿たれて城域が終わっている。比較的シンプルな縄張りであるが、かなりしっかりと普請されており、この城の重要性が垣間見られる。
二重堀切→IMG_2853.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.351391/138.708358/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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愛宕山城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2733.JPG←主郭東角の張出し
 愛宕山城は、碓氷城とも言い、歴史不詳の城である。旧中山道を押さえる位置にあり、横矢掛かりや馬出しを設けた構造から、武田氏か小田原北条氏による築城と推測されている。1547年、笠原城救援に出撃した関東管領上杉氏の上州勢を小田井原で撃破した武田勢は、一気に碓氷峠を越え、一部を坂本に駐留させて松井田衆と競り合っており、その際にこの城を構築したのではないかと推測されている。また後には小田原の役に備えて、松井田城将の大道寺政繁によって改修を受けたと言う説が一般的である。

 愛宕山城は、刎石山から南東に伸びる尾根の先端の、標高570m、比高70mの位置に築かれている。ほぼ単郭の城で、方形の主郭の周囲に空堀が穿たれて防御を固めている。主郭内部の大半は大藪で進入不能であるが、内部は上下2段に分かれている様である。主郭の東角部は横矢の櫓台が突出しており、南東と北東の堀底への攻撃を可能としている。また台地基部側の北西辺は中央部が外側に張り出し、ここでも横矢を掛けている。この他、南西には丸馬出しが設けられ、その外側は三日月堀が穿たれている。馬出しの南東にも土壇があり、物見台か何かがあったのだろう。主郭の背後の尾根は自然地形に近いが平たく伸びており、外郭として機能した可能性もあるが、先端には江戸時代の堂峰番所の施設があったので、江戸期の改変の可能性もある。愛宕山城は、遺構を見る限り、街道を押さえる防衛陣地として機能していた様である。
 尚、城からやや離れた旧街道の西側には、堂峰番所の石垣などの遺構も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.356480/138.714838/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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星尾城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2628.JPG←南斜面の腰曲輪
 星尾城は、南牧衆の筆頭であった砥沢城主市川氏の初期の居城と言われている。市川右近四郎義継が南牧に来住して星尾城を築いたと伝えられる。その子、四郎左衛門真保の時に、砥沢城を築いて移り、以後は砥沢城が市川宗家の居城となり、星尾城はその支城となったと言う。

 星尾城は、標高690m、比高180mの山上に築かれている。峻険な岩山であるが、東の尾根下に林道が通り、トンネル脇から比較的楽に登ることができる。城とは言うものの、ほとんど自然地形を利用した小城砦で、山頂部は岩山そのままのただの物見台で、人のいるスペースはわずかしかない。そこから南西の尾根に何段かの小郭があり、南下に腰曲輪が築かれている。この辺りは普請が明瞭なので、城として使われたことは間違いない。大手は南に伸びる尾根にあったらしい。山深い場所にあるので、ほとんど烽火台としての使用が主だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.173470/138.656538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田勝頼:日本にかくれなき弓取 (ミネルヴァ日本評伝選)

武田勝頼:日本にかくれなき弓取 (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2011/02/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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笹ノ平城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2576.JPG←主郭の櫓台
 笹ノ平城は、南牧六人衆の一人、高橋氏の城である。1567年に武田家家臣団が納めた生島足島神社の起請文に南牧衆のものがあり、ここに名を連ねた小沢源十郎行重、市川四郎衛門重久、市川四郎兵衛貞吉、懸河彦八郎直重、高橋左近助重行、市川兵庫助景吉ら6名を南牧六人衆と称している。笹ノ平城は高橋左近助重行が城主で、元は国峰城主小幡氏が磐戸の高橋氏に命じて築いたとされる。小幡憲重・信貞父子が同族の小幡景貞に国峰城を奪われた後、武田信玄の支援を受けて市川氏の砥沢城に入ると、景貞はこれを討つべく出兵し、この付近の桧平一帯で激戦となり、笹ノ平城も戦闘に巻き込まれたと言う。尚この合戦は、信貞が国峰城を奪還した際、信玄の下で大いに活躍していく端緒となった。その後、南牧六人衆は小幡氏に属した。更にその後は上州諸豪と同じく、武田氏が滅ぶと織田信長配下の滝川一益に属し、本能寺の変で織田政権が崩壊すると、小田原北条氏に服属したのだろう。

 笹ノ平城は、標高500m、比高150m程の山上に築かれている。東麓の民家の裏に尾根へ近づく緩斜面があり、そこを登って南東尾根に取り付けば、そのまま城まで登ることができる。ほぼ単郭の城で、山頂にはこの手の小城にしては広やかな主郭がある。北側に張り出した縦長の三角形状の曲輪で、主郭南東部には櫓台が築かれており、祠が祭られている。主郭の両端には堀切が穿たれているが、規模は小さくささやかなものである。主郭の前面に当たる東尾根には数段の小郭があり、そこからずっと降った先にも2段の段曲輪があり祠が祭られている。主郭の背後の尾根は自然地形で積極的な普請の跡は見られない。遺構を見る限り、山間の街道の監視と詰城として機能していた様だ。
主郭背後の堀切→IMG_2593.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.166974/138.723228/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名と国衆 (角川選書)

戦国大名と国衆 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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塩沢城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2553.JPG←城址推定地の現況
 塩沢城は、小塩沢屋敷とも呼ばれ、南牧六人衆の一人、市川兵庫助景吉の城である。1567年に武田家家臣団が納めた生島足島神社の起請文に南牧衆のものがあり、ここに名を連ねた小沢源十郎行重、市川四郎衛門重久、市川四郎兵衛貞吉、懸河彦八郎直重、高橋左近助重行、市川兵庫助景吉ら6名を南牧六人衆と称している。塩沢城は、元は懸河道丹の居城であったらしいが、1558年、国峰城の小幡景定が砥沢城主市川氏に道丹の討滅を命じ、市川氏は3男真好を派遣して夜襲を掛けて道丹一党を討ち取ったとされる。その後は塩沢市川氏の居城となった様だ。

 塩沢城は、小塩沢川の北岸の平地にあったらしい。現在は畑となっているが、何段かの石垣が組まれ、まるで城郭のように立派なものである。往時のものとは考えにくいが、なかなか見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.185213/138.728549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

  • 作者: 中井均
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/12/05
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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小沢城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2511.JPG←帯曲輪北端部の石積み
 小沢城は、南牧六人衆の一人、小沢氏の城である。1567年に武田家家臣団が納めた生島足島神社の起請文に南牧衆のものがあり、ここに名を連ねた小沢源十郎行重、市川四郎衛門重久、市川四郎兵衛貞吉、懸河彦八郎直重、高橋左近助重行、市川兵庫助景吉ら6名を南牧六人衆と称している。小沢城は、小沢行重が城主であったと推測されている。小幡信貞が武田信玄の支援を受けて国峰城を奪還した際、信玄の命で南牧六人衆は小幡氏に属し、その後も小幡氏の配下とされた。その後は上州諸豪と同じく、武田氏が滅ぶと織田信長配下の滝川一益に属し、本能寺の変で織田政権が崩壊すると、小田原北条氏に服属したのだろう。1590年の小田原の役の際には、豊臣方に降った南牧の同族に攻められ、落城したと伝えられる。

 小沢城は、標高498m、比高190m程の城山に築かれている。南西麓に小沢神社があり、その脇から登山道が伸びている。山頂に数段の小郭群から成る本城があり、主郭には馬頭観音堂が建てられている。主郭の前の腰曲輪の下方に小堀切があり、更にその下に2段の段曲輪が築かれている。その下には長大な帯曲輪が延々100m以上に渡って築かれ、一番北の部分には石積みが見られる。またその西下にも帯曲輪があり、林業用のものだったと思われる古びた鉄塔が3本立っている。その下方にもやや広めの平場が広がっており、南端には物見だったと思われる小丘もある。遺構は以上で、基本的には小規模な詰城であるが、想像していたよりも帯曲輪が長大で、遺構も明瞭である。
主郭下方の段曲輪→IMG_2516.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.184485/138.751853/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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ようやくパソコンが復活しました [日記]

今日、ぶっ壊れたパソコンがようやく修理が完了して、手元に戻ってきました。

パソコンのある生活に慣れてしまっているので、
パソコンがないと、データの整理もできないし、
もちろんブログのアップもうまくできないし、
不便なことこの上なかった。

まだ千葉の方では、台風後の停電が続いている地域があるけど、
その不便さたるや、パソコンが壊れたどころの騒ぎではないことは明らかだ。
一日も早く、平常の生活に戻れる日が来ることを祈りたい。
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突然、パソコンがクラッシュしました [日記]

突然、パソコンがクラッシュしました。

前日まで何の問題もなかったのに、
翌日電源を入れようとしたら、ウンともスンとも言わない。
どうも基盤が逝ってしまったらしい。

ばらしてHDDを取り出して、HDDケースにいれたらちゃんと動いたので、
データは問題なく、基盤だけ直せば問題なさそうだ。
まだ3年ぐらいしか使ってなかったので、
とりあえず金出して直すしかない。

そんな訳で、城巡りのブログもアップできないし、
その他の作業も全部ストップしてしまっている。
予定外の痛い出費になりそうだ。


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室沢砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2460.JPG←墓地の周囲に見られる土盛り
 室沢砦は、峰屋敷とも呼ばれ、中世の豪族の館跡と推測されている。神田沢と清水沢に挟まれた高台にある。一応、市の史跡に指定されているのだが、既に標注はなく、遺構も不明瞭でどれが館跡なのかもよくわからない。墓地の周囲に土盛りがあるが、遺構とは判断し難い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.452874/139.206154/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 作者: 加藤理文
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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谷津館(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2449.JPG←西側の空堀と土塁
 谷津館は、新田氏の一族藪塚氏の居館である。藪塚氏は、新田義重の5代の裔孫朝兼を祖とする一族で、藪塚に居館(藪塚館)を構えていたが、戦国時代に由良成重の圧力を避け、谷津の地に土着したと伝えられる。尚、南北朝の動乱期、藪塚氏は、宗家の新田氏に従って戦ったことが太平記に記載されている。
 谷津館は、低丘陵先端に築かれた単郭方形居館で、市の史跡に指定されている。現在でも館跡南に屋敷を構えた藪塚家の所有であるらしい。周囲には土塁と空堀が良く残っている。郭内には段差があり、いくつかの用途に応じて区画されていたらしい。南側中央には虎口が構えられている。それほど大きな遺構ではないが、貴重な遺跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.423234/139.252439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田一族の中世: 「武家の棟梁」への道 (歴史文化ライブラリー)

新田一族の中世: 「武家の棟梁」への道 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 田中 大喜
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/08/20
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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五覧田城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2323.JPG←北郭群の堀切
 五覧田城は、深沢城と並ぶ黒川谷の重要城郭で、争奪の場となった城である。元々、室町中期頃迄は深沢城主阿久沢氏らの黒川郷士は独立した武士団となっていたらしく、この地にはその中の一人、松島氏が築いた崖端城の五覧田の砦があったらしい。しかし桐生氏が黒川谷に進出すると黒川郷士は桐生氏に服属し、桐生氏が滅亡すると、金山城の由良氏の勢力下に入った。この頃由良氏は小田原北条方で、越相同盟が破れたため、1574年、上杉謙信は深沢城と共に五覧田城を攻略したが、翌75年には由良氏によって五覧田城は奪回された。1579年には、北条氏政は由良国繁と協定を結び、深沢城と五覧田城は由良国繁に預け置かれた。しかし1584年、由良氏が北条氏から離反し、それを契機に佐竹・宇都宮両氏を主軸とする北関東連合軍と北条の大軍が下野国沼尻で110日間に渡って対峙した時には、北条氏は阿久沢氏を調略して敵勢の切り崩しを図り、阿久沢・前原・目黒氏ら在地衆に命じて五覧田城を攻略した。その際北条氏直は深沢城主阿久沢彦二郎の戦功を賞し、北条氏照は彦二郎に五覧田城の普請を命じた。従って、現在残る五覧田城の遺構は、北条氏の命で阿久沢氏が改修した姿である。以後、北条氏と対立する沼田方面の真田氏と佐竹氏・宇都宮氏ら北関東諸豪との連絡路(根利通)を遮断するため、引き続き重視されたと推測される。

 五覧田城は、標高593.1m、比高293mの要害山に築かれている。麓からまともに登ったら大変な高さだが、幸い標高520m付近まで林道が付いており、そこまで車で登れるので、訪城は容易である。五覧田城は、T字状になった尾根に曲輪群を築いた、連郭式の細尾根城郭で、堀切で要所を分断しているいるが、縄張りは基本的に古風なものである。三角点のある山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根にそれぞれ東郭群・北郭群・西郭群を築き、各尾根筋をそれぞれ数本の堀切で分断している。しかし堀切の規模はあまり大きくはなく、細尾根という地勢の制約もあってか、技巧性も見られない。普請も割と大雑把で、綺麗に削平された感じではない。この他、『日本城郭大系』の縄張図にはないが、東郭群の先に東出曲輪があり、その途中に堀切が穿たれている。この堀切の南側は円弧状の横堀となり、先端で直角に折れて竪堀となって落ちている。また東郭から北西に伸びる尾根にも段曲輪群と堀切・竪堀が確認できる。史料に残る重要性に比すると、貧弱な縄張りの城で少々期待外れであるが、沼田方面への間道を押さえる高所の要害としては、これで十分だったのだろう。また桐生城の様に整備された城を期待していたが、東郭群以外は薮がちょっと多いのも少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518932/139.290204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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三ヶ郷城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2236.JPG←主郭背後の堀切
 三ヶ郷城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、東宮修理の城であったとも、或いは永禄年間(1558~70年)に東宮丹波守が築いた城とも伝えられる。時期的には黒川谷が桐生氏の影響下にあった時代で、一方で越山した上杉謙信や金山城主由良氏の勢力が伸びて政情が流動的になっていた時代でもあった。こうした不穏な情勢から、東宮氏は山城を構築したのかも知れない。

 三ヶ郷城は、標高490m、比高160mの山上に築かれている。南尾根が大手で、ここから登っていくが、途中までは林道がある。南尾根の先端近くに電波の反射板(白い色の大きな金属板)があるので、よい目印になる。この先を登っていくと、小堀切の先の大手郭に至る。この大手郭は、虎口もあり、周りに低土塁も築かれているが、内部はほとんど自然地形の斜度のある尾根で削平されておらず、あまり普請は明確ではない。更に尾根を登ると、前面に堀切が穿たれた主郭が見えてくる。三ヶ所郷城は、ほとんど単郭の小規模な城で、主郭は南側がやや広がった曲輪で、前後を堀切で穿って防御し、主郭周囲には腰曲輪を築いている。主郭には後部のみに土塁が築かれ、南西と北東の2ヶ所の虎口が開かれ、それぞれ腰曲輪に繋がっている。また堀切の外にはそれぞれ小さな堡塁が置かれて尾根筋の監視と防御の拠点となっている。この他、『日本城郭大系』の縄張図によれば、北の尾根の先や南東尾根にも曲輪群が連なるとされるが、北尾根を見たところほとんど自然地形で遺構は明確でなく、南東尾根については遠目に見た限り期待薄だったので確認しなかった。いずれにしても小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.533209/139.320545/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本城郭史

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  • 作者: 齋藤 慎一
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/11/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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小中城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2185.JPG←城址付近の現況
 小中城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、松島淡路守の城と伝えられる。松島氏は、深沢城主阿久沢氏と並ぶ黒川衆の旗頭的存在で、五覧田を本拠としていたが、小中城の松島氏はその一族であったと思われる。一説には、小中松島氏が本家であったとも言う。それ以外の詳細は不明であるが、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。

 小中城は、比高50m程の広い段丘上の一角にあったらしい。しかし現在段丘上は一面の耕地となっており、遺構は全く見られない。居館を置くには好適な地勢だが、遺構が見当たらない以上、どこに居館が構えられていたかも判断できない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.537157/139.336746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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神戸城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2154.JPG←虎口
 神戸(ごうど)城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、小曾根筑前守の城と伝えられる。その他の詳細は不明。しかし他の黒川衆と同様、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。

 神戸城は、みどり市立東中学校が建っている渡良瀬川北岸の段丘の、南西隅部に築かれている。山城以外の黒川八城では唯一、わずかではあるが明確な遺構を残している。大部分は耕地化で改変されているが、南西角に竹林があり、そこを探索すると隅部に虎口と小郭群が見られ、小堀切も確認できる。この先は川まで降りてしまうので、おそらく川の水を汲むための城道で、水場を監視する物見台があったのだろう。台地上には主殿の建つ曲輪があったと思われるが、そこには明確な遺構は見られない。
堀切と物見台→IMG_2156.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535916/139.350049/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城のつくり方図典

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  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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座間城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2147.JPG←座間城付近の現況
 座間城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、橋爪修理亮の城と伝えられる。その他の詳細は不明。しかし他の黒川衆と同様、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。
 座間城は、日枝神社西方の段丘上にあったらしい。一応「マッピングぐんま」の遺跡地図に場所は記載されているが、遺構は不明である。沢入城と同じく、段丘上の居館だった様に想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535899/139.364254/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城全史 (歴史群像シリーズ)

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2011/09/09
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タグ:居館
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草木城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2134.JPG←草木公園の段丘
 草木城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、高草木筑前守綱継・同対馬守則継の城と伝えられる。その他の詳細は不明。しかし他の黒川衆と同様、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。

 草木城は、草木湖というダム湖によって水没してしまったらしく、その正確な位置も不明である。草木橋のすぐ下辺りにあったとも言うが、橋の少し南に草木公園があり、何段かの平場が見られるので、勝手にこの辺にあったと想像しておく。そんな感じなので、明確な遺構など望むべくもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.560015/139.375563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学習研究社
  • 発売日: 2011/04/21
  • メディア: ムック


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沢入城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2124.JPG←祠のある段丘
 沢入(そうり)城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、松島式部少輔古柏の城と伝えられる。松島氏は、深沢城主阿久沢氏と並ぶ黒川衆の旗頭的存在で、五覧田を本拠としていたが、沢入城の松島氏はその一族であったと思われる。それ以外の詳細は不明であるが、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。
 尚一説には、黒川衆は由良氏に属さず小田原北条氏に通じていたため、1579年、金山城主由良国繁は黒川谷に侵攻し、深沢城主阿久沢能登守・沢入城松島式部小輔古柏ら黒川衆と合戦となったと言う(史跡「深沢の角地蔵」に伝わる伝承)。しかしこの時期は上杉氏の勢力が後退し、由良氏も北条氏に属していたため、辻褄が合わない。この合戦が事実であるならば、それは由良国繁が北条氏から離反した1583年のことであろう。

 沢入城は、八幡祠・秋葉祠のある丘にあるとされ、国道122号線の西の段丘に当たる。民家と畑・空き地になっており、何段かの平場があるが耕作に伴うものと思われ、遺構は全く不明である。民家の手前に祠が祀られているので、場所的には間違いないと思われる。城と言うより、段丘中腹を利用した居館だったのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.579420/139.389317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田岩松氏 (中世武士選書 第 7巻)

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  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
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タグ:居館
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