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向羽黒山城(福島県会津美里町) [古城めぐり(福島)]

DSC01550.JPG←一の曲輪周囲の横堀
 向羽黒山城は、葦名氏中興の英主、16代盛氏が、小田山城に代わって新たに築いた詰の城で、福島県内でも最大級の規模の山城である。会津西街道を扼する要害の地に築かれている。遺構は向羽黒山全山に及び、一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪をはじめ、多くの曲輪とそれを防御する堀切跡などが残っている。

 もともと葦名盛氏が築いたが、摺上原の合戦で葦名氏が滅亡し、伊達政宗が黒川城(現、会津若松城)に居城を移すと要害としてこの城も整備された。また、その後も蒲生氏郷や上杉景勝が入封した時も、それぞれの大名によって整備され続けた。特に景勝は関ヶ原前夜の緊張状態の中で、徳川家康の会津侵攻に備えて、各所の城や防塁の修築、新造と合わせて、この城も整備拡張した。結局、この城で実戦が行われることはないまま、徳川の世に時代は移り、そのまま廃城となった。

 山中には車道が整備されているため登るのはたやすいが、何しろ遺構の範囲が広いので、一通り回ろうとすると半日は要する。また車道のために遺構が破壊されている部分もあるので、今から考えると車道はなかったほうが良かったであろう。北側から車道を登り、羽黒山と向羽黒山の間に車を止めて歩き回った。まず、葦名盛氏屋敷跡と北曲輪跡があるが、5月初めというのにかなり草木が生い茂り、形状を掴むのが容易ではない。夏場になったら、それこそ何もわからないであろう。それぞれの曲輪の周りは、土塁と堀を設けて区画しており、防御性も持たせているようだ。特に盛氏屋敷跡は四周を土塁で固めており、防御性を意識した造りになっている。三の曲輪周辺は広くなだらかな丘陵部にあたり、公園化されてさつき等が植えられている。三の曲輪自体は簡単な土塁があるほかはそれほど防御性を持たないように見受けられた。三の曲輪から二の曲輪に向かう途中に城中最大の堀切(といっても自然の谷間を利用したものであるが)があるが、薮がひどく形状が良くわからなかった。車道に沿って歩くと、弁天曲輪を経由して二の曲輪に到達するが、この間にも車道の下に竪堀跡などが散見される。また車道の脇にも曲輪の跡が多数見受けられる。二の曲輪は、この城の実質上の主郭に当たるとのことで、城主の居館が置かれていたと想定されている。二の曲輪周囲にも多くの帯曲輪があるほか、西側の三日月口大手から登ってくる登城道には、厳重な虎口が幾重にも作られ、防御の硬さを物語っている。一部の虎口には、石垣があったと思しき跡も見られた。二の曲輪の西側には多くの削平地(西曲輪群)があり、家臣団の住居跡だったらしい。ここにも要所に竪堀や虎口が作られ、防御性を高めている。しかしこの城での白眉は、なんと言っても一の曲輪であろう。二の曲輪側から登ると、見事な竪堀あり、頂上部の曲輪を防御する横堀ありと、見所が多い。また西側を下っていくと、2本の大きな堀切で尾根筋を遮断しているなど、一の曲輪は城中でもっとも防御性が高い。最後はここに拠って敵軍を防ぐつもりであったことが良くわかる。

 5月といえども温暖化の進む昨今では、草木が生い茂っていて、なかなか遺構の確認がしづらい部分もあったが、それでも十分堪能できる山城だった。
盛氏屋敷跡周囲の堀跡→DSC01460.JPG
DSC01524.JPG←二の曲輪につながる虎口
一の曲輪背後の堀切と土橋→DSC01595.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.442836/139.901898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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