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斎藤氏館(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC00431.JPG←重文の貴惣門
 斎藤氏館は、斎藤別当実盛で知られる斎藤氏の居館である。この地には斎藤氏3代(実遠・実直・実盛)が居住したと言う。斎藤別当実盛は当初源義賢に仕え、大蔵合戦で義賢が死ぬと源義朝に仕えた。大蔵合戦の際、義賢の次子でわずか2歳の駒王丸は畠山重能に助けられ、実盛の手によって木曽へ逃れた。これが後に旭将軍と呼ばれて武名を轟かす木曽義仲である。実盛は、保元・平治の乱では待賢門の戦いで熊谷次郎直実岡部六弥太忠澄猪俣小平六等源氏17騎の一人として勇名を馳せた。敗北の後、内大臣平宗成に仕えて長井庄の荘司職を安堵された。

 源頼朝が挙兵すると、実盛は既に老武者であったが平氏からの恩顧に報いる為、平氏方として上洛し、北陸道を進撃する木曽義仲の軍勢と戦った。加賀篠原での戦いに際し、実盛は老武者と侮られないよう白髪を黒く染めて敵に立ち向かい、壊走する平氏方の中でただ一騎踏みとどまって戦い、源氏方の若武者手塚太郎光盛に討ち取られた。首実検の為、樋口次郎兼光がその首を洗ったところ、黒髪はたちまち白髪に変わり、義仲の命の恩人実盛の首であることがわかり、大将の木曽義仲はその死をたいそう悲しんだと伝えられている。石川県にはそれにまつわる史跡が残っており、これについては篠原古戦場の項に記載する。

 居館のあった地は、2ヶ所が候補となっていて、一つは実盛塚のある小河川沿いの地、もう一つがここに記す妻沼聖天山付近である。聖天山は重要文化財の惣門や本殿のある大きな神社であるので、なかば観光地化しており、静かに散策すると言う風にはいかない。また周辺は市街化していて、居館跡と見られるような遺構は完全に湮滅している。しかし寺社建築としては見応えがあり、重文指定の貴惣門は、側面に破風を三つ重ねた類例の少ない豪勢な造りで目を引く。本殿は残念ながら大修理が行われており、平成23年まではお目にかかることはできない。どちらかというと、寺めぐりの方がふさわしい居館跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆(あくまで城館としての評価)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.228125,139.374897&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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fuzzy

保元・平治の乱は意外と内容は知られていませんね、近畿・関東を始め、平氏・源氏が入り乱れての乱戦です、私もよく整理できていません。
私の家から徒歩5分くらいの処に、清水冠者源義高(木曽義仲の嫡子義高)の終焉の地が在り、小さな神社に祀られています。先日紹介した
「宮尾本平家物語」にも登場した人物で、頼朝の娘婿(人質)ですが、義仲亡き後、鎌倉を逃走し此の地で討ち取られました。悲しい話です。
by fuzzy (2009-10-23 15:26) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
私も保元・平治の乱は、それほど詳しくありません。NHKの「その時歴史は動いた」で見た程度の知識だけです。
この乱の勝者が平清盛で、後に平家が滅び、源氏が天下を取った為によけい影が薄いのかもしれませんね。

それから源義高は人質として鎌倉に預けられてから、父義仲滅亡の後、狭山まで逃げてきて討たれたんですね。まだ少年であったとは。熊谷直実はそういった悲しい武士の世界から逃れるために、出家したのかもしれませんね。
by アテンザ23Z (2009-10-24 19:26) 

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