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保渡田城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02774.JPG←かつて本丸櫓台だった天子塚古墳
 保渡田城は、甲斐武田氏の重臣内藤昌豊が築いた平城である。1566年、武田信玄は西上州に侵攻し、最後まで抵抗を続けていた西上州の豪族長野氏を滅ぼして箕輪城を制圧し、西上州を手中に収めた。そして、内藤昌豊を箕輪城代としたが、昌豊は保渡田に新城を築き、そこに在城して西上州を支配した。長篠の戦いで多くの武田氏重臣と共に昌豊が討死すると、子の大和守昌月が跡を継いで保渡田城に居城したが、武田氏が滅び、更に織田信長が本能寺で横死して旧武田領が権力の空白地帯となると、北条・徳川両軍が旧武田領に侵攻し、両者の講和の結果、西上州は北条領となった。昌月もこの時北条に降ったと言われているが定かではない。以降の事跡は城共々不明である。
 保渡田城は、武田信玄の重臣内藤昌豊の城としては、いささか小さな城である。かつての城域はほとんど宅地に変貌している。しかしその遺構は断片的にではあるが、本丸周囲の土塁や堀跡のほか、北城と呼ばれる曲輪の土塁、堀跡が比較的明瞭に残っている。本丸南側には天子塚古墳があるが、櫓台として使われたようである。武田氏特有の丸馬出しも見られず、縄張も比較的平凡なので、その規模からしても、おそらく居館としての機能を主とした城だったと思われる。もう少し遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.384254/138.979572/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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