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鷹留城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01455.JPG←主郭下の虎口(奥は堀切)
 鷹留城は、西上野有数の豪族長野氏の支城である。明応年間の1500年頃に、長野尚業が築いたと言われている。鷹留城は、長野氏の本拠箕輪城を防衛する周辺支城群の中核であった。長野氏は、箕輪城に拠って関東管領兼上野守護の山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏の勢威が関東を圧し、山内上杉憲政が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びると、長野業政は西上州に於いて北条・武田の両勢力に挟まれ、孤軍奮闘することとなった。武田信玄の西上州侵攻が始まると、業政はその支城網を駆使してこれを侵攻の都度撃退していたが、1560年に病没した。業政没後、国峰城松井田城倉賀野城と徐々に西上州を蚕食した信玄は、1566年、高浜の砦を陥とし、これを橋頭堡として箕輪城と鷹留城の連絡を分断し、鷹留城を攻撃した。城将長野業通は弟の業勝・業固と防ぎ戦ったが、武田勢の猛攻の前に業勝は討死し、業通らは吾妻に敗走して鷹留城は落城した。鷹留城の落城後間もなく、箕輪城も落城して長野氏は滅亡した。

 鷹留城は、長野氏の本城である箕輪城の西方に位置し、箕輪城とは直線距離で5~6kmも離れていて、日本城郭大系に記す「別城一郭」の関係とはやや趣が異なっている。しかし他の周辺支城群と連携して、箕輪城を防衛する中核となっていたことに違いはなく、特に最も血脈の濃い一族を城将として配していたことは、この城の重要性を自ずから物語っている。鷹留城は比較的緩やかな傾斜の山に築かれており、急峻さを武器とした拠点防衛ではなく、ある程度の兵力集中による迎撃基地として機能したと思われる。南北に主要な曲輪が連なる連郭式の縄張りを基本とし、その周囲にいくつもの腰曲輪を構築して防備を固めている。主要な曲輪間は大きな堀切で分断し、周囲の腰曲輪には長短の竪堀が多数構築されて敵兵の斜面移動を防いでいる。また石積みが散見されるので(一部後世のものもある)、それなりにまとまった石垣で防御を固めていたようである。城の北限には大堀切に架かった見事な土橋も見られる。また西側尾根にも東西に長い曲輪があり、堀切も設けられている。中規模の山城であるが、堀切などの遺構は見事で非常に見応えがある。
大手道前の竪堀→DSC01374.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.394444/138.890000/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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