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箕輪城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01983.JPG←本丸周囲の空堀
 箕輪城は、西上野有数の豪族長野氏の居城である。明応・永正年間(1492~1521年)に長野業尚が築城したと言われている。以後、憲業・業政・業盛の4代にわたって、長野氏歴代の居城となった。長野氏は、箕輪城を本拠として関東管領兼上野守護の山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏の勢威が関東を圧し、山内上杉憲政が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びると、長野業政は西上州に於いて北条・武田の両勢力に挟まれ、孤軍奮闘することとなった。武田信玄の西上州侵攻が始まると、業政は周辺支城網を駆使してこれを侵攻の都度撃退していたが、1561年に病没した。業政没後、国峰城松井田城倉賀野城と徐々に西上州を蚕食した信玄は、1566年、遂に最重要支城である鷹留城を攻略し、残る箕輪城を総攻撃した。業盛は一族と共に御前郭で自刃し、箕輪城は落城して長野氏は滅亡した。

 長野氏滅亡後、信玄は箕輪城に重臣の内藤昌豊を置き、西上州統治の拠点とした。1575年、長篠の戦いで昌豊が討死すると、その子昌月が箕輪城主となったが、1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされると、一旦、北条氏邦が進駐。次いで信長に派遣された滝川一益がこれを追って松井田城経由で入城、間もなく厩橋城に移った。しかし、武田氏滅亡のわずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死すると、神流川合戦で一益は北条勢に敗れて本領の伊勢へ敗走し、箕輪城には再び北条氏邦が入り、内藤昌月は北条氏に従った。北条・徳川の2大勢力による旧武田領争奪戦「天正壬午の乱」の後、上州をほぼ併呑した北条氏は箕輪城を拡張整備した。しかし1590年の小田原の役では、北条氏邦は鉢形城で籠城し、箕輪城は一戦も交えずに前田利家に降服した。北条氏滅亡後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人井伊直政を12万石で箕輪城に封じ、直政は在城8年の間に箕輪城を近世城郭へと大改修した。1598年に直政が高崎城を築いて移ると、箕輪城は廃城となった。

 箕輪城は、上州に多い丘城タイプの城の中では最大の城で、西上野最大の拠点となる重要な城であった。その重要性は、武田信玄や徳川家康が重臣を置いて西上野の統治拠点としたことからも伺うことができる。その縄張りは近世城郭として仕立て直されただけあって勇壮・広大で、巨大な空堀で囲んだ本丸を中心に、多くの広大な曲輪群で構成されている。丘陵を巨大空堀で大きく分断しており、その規模は圧巻である。また、馬出を効果的に配置しており、絶妙の縄張りである。井伊氏時代の大手口には丸戸張と呼ばれる出丸があり、現在でも高台となって残っている。鍛冶曲輪や三ノ丸には石垣も残っている。それ以外にも丸馬出や埋門なども残り、見所には事欠かない。ただ国指定史跡となっているにも関わらず、城域が広大すぎて整備が追いつかないせいか、薮が多く遺構の確認が難しい部分も多い。空堀の配置は直線的で、北条氏の巨大平山城(滝山城滝の城小机城松山城など)の様な豪快な横矢掛かりこそ少ないが、必見の城であることに疑う余地はない。近世の改修を受けているものの中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせており、中世城郭と近世城郭の繋ぎとなる城として貴重である。
三ノ丸の石垣→DSC01877.JPG
DSC02062.JPG←鍛冶曲輪横の竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.404653/138.951119/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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