SSブログ

怒田城(神奈川県横須賀市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02959.JPG←空堀跡
 怒田城は、日本城郭大系では沼田城と記載され、相模の豪族三浦氏の築いた城である。「吾妻鏡」や「源平盛衰記」に登場する城で、平安末期の1180年、平家打倒に挙兵した源頼朝は石橋山で大敗した。この敗報を進軍途上で聞いた三浦勢の和田義盛は、三浦氏の頭領三浦義明に「怒田の城は、三方が山高く一方が海に面し、精兵200もあればたやすく攻め落されない城だ」と言って、本拠の衣笠城より怒田城に籠ることを献策したと言う。しかし義明は怒田城は無名の城だとして献策を退け、結局衣笠城に立て籠って攻め寄せる畠山重忠の軍を迎え撃った。しかし結局支えきれず、三浦一族は、義明を残して夜陰に紛れて安房に逃れ、頼朝の元に集い再起を図った。この敗走の際、一旦怒田城に逃れ、そこから舟で逃れたと言われている。怒田城のすぐ下には、三浦氏が舟を係留したと伝えられる「舟倉」という地名が残ると言う。その他の城の歴史は不明である。

 怒田城は、久里浜の入江が深く入り込んでいた当時、入江の東岸に突き出た半島状の小丘陵の突端に築かれた城である。衣笠城を取巻く馬蹄形連丘の入口に当たる佐原城の対岸に位置し、水上交通の要所にあって、三浦一族の水軍の根拠地であったと考えられている。現在、怒田城の山麓は都市化で住宅が密集し、西麓を京浜急行が通っていて山の一部が削られている。山上の怒田城址は公園化されており、空堀跡とされる主郭より一段低い場所には吉井貝塚があって、県の指定史跡となっている。空堀跡というが、埋められているようで形状も大きさもよくわからない。どこまでが城域かも判然としないが、おそらく背後を堀切で分断した単郭の城だったのだろう。地勢の要害性は残っており、眺望に優れていることが現在でもわかるが、城らしい遺構はわずかである。尚、公園登り口の脇に車を止められそうなスペースがあるが、ここは民家の敷地であるので、無断駐車は厳禁である。
主郭跡→DSC02960.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.238171/139.701945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント