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横山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04041.JPG←主郭の切岸
 横山城は、信濃善光寺と一体となって存続した城で、川中島を権威的に扼する要地である。築城時期は定かではないが、南北朝時代には本格的な城郭として機能していた様で、1352年には信濃の南朝方であった諏訪直頼・禰津宗貞らは善光寺に在陣し、足利尊氏方の小笠原為経・高梨経頼らは善光寺横山を攻撃した。1387年には信濃守護斯波義将・義種の支配に反発した村上頼国・高梨朝高・島津忠国らの国人一揆が善光寺横山で挙兵し、守護代二宮氏との間で横山合戦が行われた。戦国時代に入り、北信に勢力を伸ばした武田信玄と上杉謙信が川中島で干戈を交える様になると、謙信は横山城を軍事拠点として活用した。

 横山城は、善光寺東側に隣接する城山に築かれた城で、長野市街を見下ろす比高40m程の段丘上に位置している。市街地にあるため、訪城する前は平城に近い城かと思っていたが、予想よりも大きな比高差を持った要害地形である。現在主郭には健御名方富命彦神社が建っているが、主郭周辺部は切岸や土塁など、城の遺構をよく残している。主郭の周りには一段低くニノ郭があり、東側には腰曲輪らしい平場が残っている。ニノ郭の南半分には公民館が建てられて破壊を受けているが、その南側斜面にも数段の腰曲輪が残っている。ニノ郭は中央部を道路が東西に貫通しており、これは堀切の跡かと思ったが、日本城郭大系などによるとどうも違うらしい。主郭の北側は介護支援センターや気象台が立ち並び、市街化が進んでいるため、どこまで城域であったのかはっきりしないとされるが、普通に考えれば長野清泉女学院の建つ丘陵部北端までが城域であったと推測される。遺構は市街化・公園化などでかなり破壊を受けているが、主郭部はよく往時の姿を留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.661569/138.192108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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