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関宿城 その1(千葉県野田市) [古城めぐり(千葉)]

DSC00376.JPG←本丸跡
(2006年8月訪城)
 関宿城は、古河公方足利氏の重臣簗田氏の居城である。関東有数の大河、利根川が江戸川と分流する位置に築かれた要衝で、三方を大河で守られると共に、利根川流域の水運を掌握できる交通の要地であった。その重要性から、小田原の北条氏康は「関宿城を手に入れることは、一国を取ることにも匹敵する」と述べた程であった。

 関宿城は、1457年に簗田成助が水海城から関宿に移って築城したとされる。足利成氏が享徳の乱で古河に本拠を移すと、古河城防衛の要地関宿城を守備した簗田氏は有力家臣としてその地位を高め、代々古河公方家と通婚して筆頭家老となった。しかし徐々に関東の情勢は風雲急を告げる。1538年、北条氏綱は古河公方足利晴氏の上意を受けて第一次国府台合戦で小弓公方足利義明を滅ぼし、翌年娘(芳春院殿)を晴氏の正室とし、北条氏は「御一家」に列せられた。1546年の河越夜戦の際には、晴氏は両上杉氏の要請を受けて北条氏と断交して敵方に付いたが、北条氏がこれに打ち勝って関東における地位を不動のものにした。その後北条氏康は徐々に晴氏に圧力をかけ、晴氏を隠居させ、芳春院殿所生の義氏(氏康の甥に当たる)が公方の家督を継ぎ、晴氏の長子で簗田氏の娘の所生であった藤氏は廃嫡された。1558年には、北条氏康の後援によって葛西城で元服した義氏は、簗田氏の関宿城に御座所を移し、簗田氏は古河城に移った。1560年、越後の上杉謙信が越山して関東に出陣すると、足利氏の宿老簗田晴助らは義氏から離反して、藤氏を古河城に入れて擁立し、義氏は関宿城に籠城した。謙信が帰国すると、義氏は関宿城を開城して小金城、次いで佐貫城へと移り、関宿城は再び簗田氏に接収された。1564年、第二次国府台合戦で勝利した北条氏は、房総半島の経略を進め、簗田氏の関宿城を攻撃した。その後、幾度かの攻防があり、遂に1574年、北条氏政と佐竹義重らとの間で和睦が成立し、佐竹氏の仲介で関宿城は開城し、簗田氏は北条氏に完全に従属することとなった。簗田氏は北条氏から赦免されて水海城に移り、関宿城は北条氏に接収された。北条氏は関宿城を攻略したことによって、利根川水系と常陸川水系を掌握し、関東全体の流通網に大きな影響力を有することになった。また、公方権力は完全に北条氏に取り込まれた。以後、関宿城には大道寺政繁・北条氏重・北条氏秀ら北条氏の御一家衆や家老が城将を務めた。1590年の小田原の役では、豊臣・徳川連合軍に攻められて落城し、徳川家康が関東に入部すると、関宿城には家康の異父弟松平康元が城主となった。その後、松平・小笠原・北条・牧野・板倉・久世・牧野久世と城主が変遷し、1705年以降は久世氏が城主となって幕末まで存続した。

 関宿城は、その地理的重要性と歴史的経緯からすれば、あまりに無残なぐらい遺構が湮滅している。それは、一つには江戸時代初期に利根川流路を変更したことによって、返って水害が増えたことによるらしい。近代に入ってからは度重なる河川改修と堤防工事で、かつての城域の2/3は堤防の下に埋もれていると言う。本丸、二ノ丸、三ノ丸、発端曲輪、天神曲輪などで構成されていたが、改変が激しく、現在ではその縄張りを想像することは極めて困難である。かつての本丸跡とされる微高地に石碑が立つだけとなっている。尚、博物館として建てられた模擬天守は、本丸位置からは北に500m程も離れており、往時の城の位置とは異なっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.096601/139.779978/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※関宿城の再訪記はこちら


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タグ:近世平城
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