SSブログ

成東城(千葉県山武市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2987.JPG←主郭の空堀と土橋
 成東城は、下総の名族千葉氏の庶流成東氏の居城である。元々は、応永年間(1394~1428年)に千葉氏の家臣印東氏が築城したと言われ、その後1530年に千葉氏21代勝胤によって再興されたと言う。この時の城主は勝胤の弟胤家とも、或いは勝胤の5男胤定とも言われるが、いずれにしても成東氏は千葉氏宗家の近親という有力な家柄であった。胤定の嫡子将胤は、本佐倉城の城代を務めた千葉氏の重臣であったが、1590年の小田原の役の際、小田原城の攻防戦で討死し、成東城も落城した。徳川家康が関東に入部すると、成東城は石川康道・青山忠成等によって領有されたが、1620年に青山氏が武蔵岩槻城に転封となると、成東城は廃城となった。

 成東城は、比高40m程の台地上に築かれた城である。作田川南岸の独立丘陵全体を城域としていた様で、台地北東端を大きな空堀と土塁で区画して、主郭とニノ郭を築き、周囲の台地全体を外郭としていたと考えられる。現在残っているのは城址公園となった主郭・ニノ郭と周辺腰曲輪部だけで、外郭は住宅地が造成されて遺構は湮滅している。しかし残っている部分だけでも見応えのある遺構で、主郭とニノ郭には横矢掛かりの大きな空堀が廻らされ、櫓台や土塁も規模が大きい。主郭とニノ郭の間には、馬出し状の腰曲輪があり、主郭虎口を防御している。一方、湮滅した外郭の南端にも山林の中に切岸と空堀が残っている。縄張り的には、同じ千葉氏の城であった本佐倉城や臼井城と似ており、この地の拠点城郭として機能したことが伺われる。
外郭に残る空堀→IMG_3057.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.604235/140.405387/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント