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大台城(千葉県芝山町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3500.JPG←主郭の空堀跡
 大台城は、飯櫃城主山室氏に属して勢力を拡大した井田氏の居城である。文安年間(1444~49年)に井田刑部大輔俊胤は、上総国山辺庄小池郷を領して山室氏に客将として仕えていた。1505年には、刑部大輔の嫡男井田美濃守胤俊が、千葉昌胤の元服式で礼酒の儀を務めるなど、千葉氏にも出仕しており、千葉勝胤から重く用いられた。1532年、井田友胤は山室氏から独立が認められて千葉昌胤の直臣となり、1548年には新たに大台城を築いて居城とした。1555年、隣接する三谷氏の内訌に介入して攻め滅ぼし、坂田郷を併呑して坂田城を築いたとされる。しかしこの坂田城が現在の坂田城であるかどうかは不明な点が多い。翌56年、友胤の子胤徳は居城の大台城を改修し、永禄年間(1558~69年)には正木氏の東総侵攻に激しく抵抗した。天正年間(1573~92年)には新たに坂田城を築き(改修か?)、小田原北条氏に属して牛久城岩槻城に在番した。1590年、北条氏が滅亡して徳川家康が関東に入部すると、井田氏は佐倉城主となった武田信吉に仕え、関ヶ原の戦いの後に信吉が水戸に転封となると、これに従って水戸に移り、この地を離れた。

 大台城は、飯櫃城から南にわずか1.9kmの位置にあり、同じく高谷川の西岸にある比高28m程の丘陵上に築かれている。台地先端部を空堀で穿って主郭を置き、その南にニノ郭・三ノ郭を配置している。また周囲にも腰曲輪を巡らしている。主郭・二ノ郭と一部の腰曲輪は現在畑に変貌しており、一部は改変を受けている。三ノ郭や腰曲輪の大部分は薮に埋もれ、冬でも踏査が困難で、ほとんど形状が把握できない。結局、薮に撃退され、主要部のみ確認して撤収した。大台城は、同じ井田氏の手になる坂田城や津辺城に比べると旧態依然とした縄張りで、空堀の規模も小さく、戦国末期にはその重要性が低下していたことが見て取れる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.712206/140.425237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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