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山中北城(千葉県芝山町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3565.JPG←主郭外周の二重横堀の一つ
 山中城は、戦国時代の大永~天文年間(1521~55年)頃に大台城主井田氏の客将和田五郎左衛門尉胤信によって築かれた城と言われている。和田氏はその後も小田原北条氏に属した井田氏の勢力の一翼を担い、胤信の子、和田伊賀守胤富は、坂田城主井田因幡守胤徳の軍代として150騎を率いて武蔵・常陸を転戦したと伝えられる。戦国末期の1587年、小田原の北条氏政が井田胤徳に宛てた書状には、井田氏の同心衆筆頭に和田左衛門尉(和田胤富か?)の名が記載されている。その後、1590年の小田原の役の後、廃城になったと思われる。尚、山中城は、北城と南城が宿谷と呼ばれる谷戸を挟んで至近距離に並立し、北城は一説には、和田氏の隠居城であったとも言われている。

 山中北城は、高谷川南岸の比高20m程の小丘上に築かれている。遺構はよく残っているが、曲輪の位置関係からするとどこが主郭であるか、判断に迷う。と言うのは、普通に考えれば空堀で厳重に囲まれた稲荷社の鎮座する曲輪が主郭と考えられるが、その北側の曲輪より低い位置に存在するからである。これは、北の曲輪を敵に攻め取られると主郭内部が丸見えになることを意味するので、位置関係的に主郭との判断が難しいのである。しかしここでは一応、稲荷社があるのを主郭とし、北側の曲輪をニノ郭としておく(千葉県の調査報告書では、前述の曲輪を三ノ郭としている)。三ノ郭は平坦な広い曲輪で、上段のニノ郭とは5m程の切岸で区画されている。南と西に大土塁を構えている。二ノ郭は外周に低土塁を築き、北西端に搦手虎口を置き、三ノ郭の大土塁との間は土橋状に連結されている。ニノ郭・三ノ郭と主郭との間は大きな空堀で分断され、虎口が切通し状に築かれ土橋が架かっている。主郭は、稲荷社の背後に土塁と櫓台を構え、その背後に円弧状に廻らした二重横堀が穿たれている。これは、規模は異なるが真里谷要害城の外郭三重空堀に雰囲気が似ている。横堀は城道を兼ねていた様で、主郭空堀の下では、竪堀状の城道が分岐して斜面を下っている。この堀の分岐点には櫓台が築かれて、堀底を監視しているのがわかる。山中北城は小規模な城砦であるが、その割には空堀の規模が大きく、構造も複雑で見応えがある。
櫓台と横堀・竪堀→IMG_3586.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.701592/140.434102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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