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土橋城(千葉県多古町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4069.JPG←畑中に残る堀跡
 土橋城は、下総の名族千葉氏の支城である。土橋城の周辺一帯は、南北朝時代に「千田庄動乱」の舞台となった。この時代、諸国の武家は惣領制が崩れてきており、惣領家と庶子家が南北両朝に分裂して争うことが多かったが、千葉氏でも同じであった。鎌倉末期に千葉氏9代当主宗胤は元寇の際に九州に駐屯し、そのまま九州で幼い嫡子胤貞を残したまま他界した。宗胤の下総不在の間に、その弟胤宗が千葉氏の家督(千葉介)を横領し、その後、千葉介は胤宗の子貞胤(胤貞の従兄弟)に継承された。南北朝の動乱が起こると、惣領家を横領された胤貞は1335年、後醍醐天皇から離反した足利尊氏に従って、宮方の新田義貞に属した貞胤と抗争を開始し、貞胤の「守護使」が胤貞の所領であった千田庄に乱入し、以後2年に渡って千田庄一帯で戦乱が繰り広げられた。これが千田庄動乱である。一方胤貞は、同年秋に同族の相馬親胤と連合して千葉城を攻めるなど、抗争は激化した。この後、千葉侍所竹元氏が土橋城を攻めて、城内の12人が討死にして落城したと伝えられている。この土橋城合戦は、1336年にあったという説と、1340年にあったという説がある様だ。時代は下って室町後期に生起した享徳の大乱の際には、千葉宗家の胤直・胤宣父子は庶流の馬加康胤・原胤房らに千葉城を逐われ、胤直は志摩城に、胤宣は多古城に立て籠もった。しかし間もなく両城とも攻め落とされ、胤直は土橋城近くの東禅寺に逃げ込んで自刃した。この事から、土橋城はこの頃まで要衝として機能していたと推測されている。

 土橋城は、栗山川西岸の比高25m程の丘陵上に築かれた城である。台地東南端に鎮座する妙見神社があるのが主郭であったと思われ、後世の変更の可能性があるものの、神社背後に土塁や堀が見られる。しかし台地上がほとんど畑化されている為、明確な城郭遺構は少なく、妙見神社からやや離れた北側に薬研堀が検出された堀跡が低い畑となって残り、また妙見神社から西に200m程離れた場所には土塁や虎口、腰曲輪状の平場などが確認できる程度である。しかしいずれにしてもささやかな遺構が散在するだけで、どのような縄張りの城だったのかはあまり明確ではない。室町期頃までの素朴な形態の城だったのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.757758/140.478610/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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