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志摩城(千葉県多古町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4103.JPG←主郭西側の腰曲輪
 志摩城は、島城とも記載され、多古城と共に下総の名族千葉氏の内乱の舞台となった城である。室町後期の1455年、鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を謀殺し、関東を二分する大乱が生起した。これが享徳の乱である。この余波で下総では千葉氏内部に内訌が生じ、上杉方の宗家千葉胤直・胤宣父子は、一族で成氏方の馬加城主馬加康胤・小弓城主原胤房らに攻められて千葉城(猪鼻城)を逐われた。敗走した胤直は弟胤賢と共に志摩城に立て籠もり、嫡子胤宣は多古城に立て籠もった。しかし両城共に攻囲されて落城し、胤宣は付近の阿弥陀堂で自刃し、胤直も東禅寺に逃れて自刃し、千葉宗家は滅亡した。志摩城もこの時廃城になったと考えられている。

 志摩城は、栗山川周囲の低湿地帯の中に文字通り島の様に浮かぶ台地上に築かれた城である。全面畑と化した三角形の広大な主郭と、その西側の腰曲輪数段から構成された、非常に素朴な縄張りである。主郭はだだっ広いだけのただの平場で、耕地化による改変のせいもあるのか、内部には土塁も空堀も確認できない。この三角形の台地と西側の台地の間は低地になり、現在車道が貫通しているが、往時は自然地形を利用した空堀になっていたらしい。主郭の空堀側には数段の腰曲輪が築かれており、現在公園として整備されている。また空堀の西側の台地は「ニノ台」と呼ばれ、二ノ郭であったと考えられるが、ほとんど自然地形のままの様である。結局、明確な遺構が腰曲輪の平場しかなく、ぱっと見では何が城なのか、普通の人にはまずわからない。駐車場と解説板と遊歩道が整備されているが、縄張図や標柱がないと、城歩きをしている人でも城と気付かない程、志摩城は室町期の古い城の形態の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.721984/140.474952/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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