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小斎城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2857.JPG←ニノ郭堀切と馬出郭
 小斎城は、金山城丸森城と並ぶ伊具三城の一つで、伊達・相馬両氏の争奪の場となった城である。『日本城郭大系』では柴小屋館、現地表記では柴小屋城と呼ばれるが、現地解説板によれば、本城である柴小屋城と、出城である西舘城の2つを合わせて、小斎城と呼んでいた様である。伊具郡が伊達・相馬両氏の係争地帯となったのは、伊達氏家中の内乱「天文の乱」に端を発する。その経緯は丸森城の項に記載する。1565年に稙宗が丸森城で没すると、稙宗が隠居料としてもらっていた伊具郡は、稙宗の世話をしていた相馬氏が占領し、これが伊達氏と相馬氏の争いの原因となった。もともとこの地には、1515年頃より小斎邑の領主小斎山城助・長門守・平太兵衛の歴代の居城として西舘城があったらしいが、この相馬氏による伊具郡占領の際、1566年に小斎平太兵衛は相馬氏の家臣藤橋紀伊胤泰に滅ぼされ、以後相馬氏の持ち城となった。1576年になると、伊達晴宗・輝宗父子は伊具郡奪還に乗り出し、矢ノ目に本陣を置いて小斎城攻略に取り掛かった。一方、相馬盛胤は伊達勢を防ぐため、佐藤宮内為信・泉大膳に命じて小斎城を改修して防衛力を強化した。この頃は、小斎城下は深田が広がっており、矢ノ目合戦は伊達方が多くの犠牲者を出して撤退したと言われている。しかし1581年に転機が訪れる。即ち、相馬氏は小斎城の城番の交代として金澤美濃を派遣したが、小斎城主佐藤為信は、父好信が相馬家中の権力争いで憤死していた為、伊達氏の誘いに乗り金澤美濃を斬って伊達氏に寝返った。これを機に伊達輝宗・政宗父子は矢ノ目に出陣して伊具郡を攻撃した。角田城から阿武隈川を渡る橋頭堡を得た伊達氏は、以後戦況を有利に展開し、1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達・相馬両家の和睦が成立し、和睦の条件として、輝宗は伊具三城を相馬氏から奪還することに成功した。小斎城は、戦功のあった佐藤氏がそのまま城主として置かれ、1615年、元和の一国一城令で廃城となった。その後も佐藤氏は、旧城下に屋敷を構えてこの地の領主として幕末まで存続した。

 小斎城は、阿武隈川東岸の平野の東にそびえる、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。登道が数ヶ所整備されている。東西に伸びる尾根上に一直線状に曲輪を配し、各曲輪を堀切で分断した連郭式の大城塞となっている。各曲輪を分断する堀切は深く鋭く、非常に独立性が高い。殊にニノ郭前面にある馬出郭は、鋭くそびえた独立堡塁の形状となっており、駿河丸子城の独立堡塁によく似た印象を受ける。馬出郭の前面にも構築はやや浅いが虎口郭を備え、馬出郭と合わせて多重枡形を形成している。城の主要部である主郭・ニノ郭には広い腰曲輪群が取り巻き、物見台や土塁も築かれて防御を固めている。一方、虎口郭から西側が「西舘城」とされ、東斜面に横堀や腰曲輪を備えている。ここから南西に派生する尾根にも曲輪群や堀切が確認でき、城域であったことがわかる。主郭の東側には馬屋跡とされる曲輪があり、先端の堀切の先が三ノ郭とされている。三ノ郭の先にも物見の曲輪群があり、もう1本堀切も穿たれている。小斎城は、主要な曲輪はよく整備されているが、腰曲輪は全く未整備で、藪で覆われている。しかし伊達・相馬両軍によって攻防の的となった大城郭の名残りははっきりと見て取れる。
主郭~ニノ郭間の堀切→IMG_2895.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=37.920656,140.82829&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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