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長倉城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6715.JPG←北斜面の横堀
 長倉城は、佐竹氏の庶流長倉氏の居城である。佐竹氏8代行義の次男義綱が、1317年にこの地に分封されて長倉氏を称し、長倉城を築いた。1407年、佐竹宗家12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、一族の山入氏・長倉氏・額田氏らが反発して一揆を結成し、家中で大規模な内訌が発生した。翌年、長倉義景は長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。鎌倉公方持氏は大軍でこれを包囲攻撃し、兵糧の尽きた義景は開城講和した。しかし1435年、上杉禅秀の乱の余波で、持氏は再び岩松持国を総大将に6000余騎の大軍で長倉城を包囲した(長倉合戦)。しかし攻め落とすことができず、鎌倉方は包囲を解き、長倉氏の武名は広く知れ渡った。1492年、佐竹義舜は那須資実と共に長倉城を攻め、長倉義久は堪えられずに降伏し、以後長倉氏は佐竹氏に従った。1595年、佐竹領内の知行割替えで長倉義興は柿岡城に移封となり、長倉城は廃城となった。

 長倉城は、比高40m程の丘陵上に築かれている。広い頂部に2段に区画された主郭・二ノ郭を並べ、外周に腰曲輪を巡らした縄張りとなっている。腰曲輪は、傾斜の緩い南斜面に多く構築され、中央部を竪堀で分断している。北から東にかけての急斜面は、帯状の腰曲輪や横堀が構築され、数個の竪堀を落としている。しかし一部の竪堀は崩落地形に近く、人工地形か判断が難しい。おまけにこの城は、全体に藪がひどく、特に北から東斜面の遺構は確認が難しい。地形図にも城跡として記載されているので期待していたが、藪が酷く残念な城である。更に、周辺斜面は作業林道で改変もされているのは、少々いただけない。縄張り的にも比較的古い形態を残したままの城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573785/140.275776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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