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佐沼合戦旧蹟(宮城県登米市) [その他の史跡巡り]

 登米市の佐沼地域には、葛西大崎一揆の際に伊達政宗による凄惨な掃討戦の舞台となった佐沼合戦に関わる史跡が残されている。佐沼城を訪城した折、これらの旧蹟を巡り歩いた。

<伊達政宗陣場>
IMG_0024.JPG←陣場跡
 豊臣秀吉より葛西大崎一揆討伐の命を受けた政宗は、米沢城を出陣して6月25日に加美郡宮崎城を攻略、同月28日には一揆勢の本拠である佐沼城への攻撃を開始した。頑強な抵抗を排して、7月3日の朝には城を占領したと言う。この時政宗が本陣を敷いたのがこの陣場で、佐沼城西館の目と鼻の先にある。石碑が建てられている頂部は土壇となっているが、遺構であろうか?この他、周囲にも腰曲輪状の平場が確認できるが、非常に小規模な陣場である。佐沼城外郭の外堀となっていた長沼川を挟んで、西館の要害と指呼の間に対峙する比高10m程の丘陵地で、いかに伊達軍といえど、最初からここに本陣を敷くことはできなかったであろう。おそらく、もはや残るは本丸だけとなった佐沼合戦の最終盤に、合戦の最後を見届けるために政宗が本陣をここまで進めてきたのだろう。それは一揆を裏で扇動した自身の謀略の痕跡を消し去るために、一揆勢が一人残らず殲滅されるのを見届けるためであった。戦国武将とはいえ、これ程冷徹に何千もの民衆を葬り去るというのは、政宗とは恐ろしい男である。背筋が凍る思いである。尚、国道398号線から脇道に入った右手上方にも「伊達政宗陣地跡」の石碑が建っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.696178/141.191826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<首壇>
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 1591年7月、伊達軍は佐沼城に立て籠もった一揆勢を討伐し、城を落城させると「屈強の侍500余人、その他百姓など2000余人」(政宗文書)を撫で斬り(要するに皆殺し)にし、その首を塚を築いて葬った。登米市役所北西の丘陵上の車道脇にあるが、案内板などが何もなく、場所が非常にわかりにくい。もう少し誘導標識などを設置してくれるとありがたい。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.692712/141.185668/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<兵糧山>
IMG_2054.JPG←長沼に突き出た丘陵地
 佐沼合戦の際に、伊達軍は長沼の水運を利用してこの地に兵糧を運んで集積したことから、兵糧山と呼ばれるようになった。先日、東京オリンピックでのカヌー競技の候補地として話題になった、長沼ボート場のすぐ北東にあり、長沼に突き出た丘陵地である。周りを沼で囲まれているので、敵襲を受けにくいことからこの地が選ばれたのだろう。現在は公園となっており、遺構は特にないが、史跡看板が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.698824/141.147151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<千葉越前道胤の墓>
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 千葉越前道胤は、奥州千葉氏の一流下油田千葉氏の出で、葛西氏の重臣であり石越の西門館主であった。葛西大崎一揆の際に旧臣達を糾合して挙兵し、佐沼城に立て籠もった。しかし伊達軍の攻撃を受け、佐沼城から迫川を渡ったこの地で戦死したと言う。現在残る墓は8代目の子孫が建てたものだと言う。ここも場所が非常にわかりにくい。GoogleMapの航空写真から、多分ここじゃないかとアタリをつけて訪問したところ、ドンピシャだった。民家の下にひっそりと歴史が眠っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.697778/141.200173/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<伊達上野介政景の陣地跡、及び佐藤紀伊為信墓>
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 伊達上野介政景は、留守政景と呼んだ方がわかりやすいだろう。政宗の叔父に当たり、留守氏に入嗣して、当初は岩切城を、後に利府城を居城とした。その政景が、佐沼城攻撃の際に陣場としたのがこの場所で、当時は大念寺がこの付近にあり、迫川の東にあって伊達軍の炊事場となっていたと言う。
 尚、この地は佐沼合戦で討死した伊達軍の武将佐藤紀伊為信が埋葬された地とも伝えられる。為信は小斎城主で、伊具郡を奪還を目指していた伊達氏に服属して一族の家格を与えられた。佐沼合戦に実弟良信と共に家臣を引き具して奮戦したが、7月3日の戦いで兜の八幡座より敵弾を受けて討死した。良信は、兄の遺骸を抱いて戦列を離れ、この地に葬った。良信はそのまま剃髪して名を功尽と改め、この地に留まって兄の霊を弔ったと言う。現在は市街化した住宅地の一隅にあり、往時の雰囲気は微塵もないが、史跡看板と佐藤為信・良信兄弟の供養塔が残っている。
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 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.694236/141.205398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

<伊達藤五郎成実の陣地跡>
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 伊達藤五郎成実は、政宗の従兄弟に当たり、勇猛な武将として知られ、後に亘理城主亘理伊達氏の祖となった。佐沼合戦では、政宗の本陣に近い場所に陣を置いた。現在は佐沼中学校の校庭の南東隅に史跡看板が立っている。当時は校庭の大半が西の洞と称する沼で、実際の陣所は看板の位置より東方50mの位置にあったと言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.694571/141.191257/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


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タグ:古戦場
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