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七尾城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5955.JPG←腰曲輪上に屹立する三ノ郭
 七尾城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の最後の居城と言われている。山内首藤氏の事績については、大森城の項に記載する。山内首藤氏が最終的に七尾城に本拠を移した時期は不明であるが、永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子が石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた時には、七尾城が本拠となっていたとされる。当時の七尾城は三方を水に囲まれた要害で、葛西勢は総力を挙げて攻撃したが攻略できず、最後は兵糧攻めによって陥落し、山内首藤氏は没落した。その後、七尾城には葛西氏の一族葛西守重が入った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易されると、七尾城は廃城になった。

 七尾城は、北上川北岸に連なる丘陵群の一つ、標高80mの山上に築かれている。大きく3つの峰に曲輪群が築かれており、東の高い峰から順に主郭郡・二ノ郭群・三ノ郭群とされている。これらの曲輪群は、それぞれのピーク上に主体となる曲輪を置き、その外周に腰曲輪を数段廻らし、さらにそれぞれのピークから北西に伸びる尾根に沿って舌状曲輪を配置した構造で、一城別郭の縄張りとなっている。私は三ノ郭西側の谷戸に小道が付いていたので、そちらから南面の尾根筋まで至り、そこから西から順に城内を巡った。三ノ郭は比較的藪が少なく、山の手入れもされているので、遺構の確認がし易い。三ノ郭西側に浅い横堀を備えた腰曲輪を築き、北西尾根には二重堀切を穿ち、更に舌状曲輪を配している。舌状曲輪側方にも帯曲輪を築いている。次の二ノ郭群は、地形上の制約からか曲輪群の規模は小さい。また藪も多く、遺構が見づらい。基本的にはピーク上の二ノ郭と外周の腰曲輪、更に北西尾根に数段の段曲輪が置かれている。二ノ郭群と主郭群の間は、高低差の大きな斜面・鞍部で分断されており、二ノ郭側はこの斜面に何段もの腰曲輪群を築いている。鞍部は平場になっており、谷戸を登ってくる大手道に繋がっている。主郭は、ここから数段の腰曲輪を経由した上にあり、途中には浅い堀切と土橋もある。主郭内は僅かな段差で3段ほどに区画されている。主郭の外周も数段の腰曲輪で囲繞され、急峻な南側では幅が狭まって武者走り状になっている。主郭群も北西尾根に舌状曲輪が伸びており、先端を急峻な中規模の堀切で分断し、更にその下方にも舌状曲輪がある。主郭群と二ノ郭群の間の谷戸には、大手門の跡が残り、門跡の土塁が明瞭である。
 七尾城は、全体に旧態依然とした縄張りで、見た限りでは大森城の方が新鋭の山城である。また大森城の方が本城にふさわしい規模を誇っているので、山内首藤氏が居城を七尾城に移したというのは少々疑問に感じた。相当追いつめられたものか、或いは、大森城の方は葛西氏時代の戦国後期に大改修されたのかもしれない。
三ノ郭群の二重堀切の1本目→IMG_5977.JPG
IMG_6129.JPG←主郭群の堀切
谷戸の大手門跡→IMG_6168.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.528646/141.344240/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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