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大森城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5750.JPG←主郭北側の横堀
 大森城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の居城である。山内首藤氏は、後三年の役以来、源氏に恩顧のある家柄であったが、源頼朝が石橋山で挙兵した際、山内首藤経俊は母が頼朝の乳母であったにも関わらず平家に味方したばかりか、頼朝に対して矢を放ったため、頼朝が鎌倉を制圧すると斬首されそうになったが、老母の助命嘆願で助けられた。その後は頼朝に従って軍功を挙げ、御家人の列に連なった。奥州合戦にも従軍して、その功によって桃生24郷を拝領したのが、山内首藤氏が奥州に地歩を築く契機となった。後に山内首藤氏の嫡流は備後に移ったが、庶流が桃生郡に下向してこの地を支配した。奥州入部の時期は不明であるが、鎌倉末期から南北朝期頃に掛けては永井城を本拠に勢力を伸ばし、その後、大森城に居城を移して大勢力に成長した。大森城を本拠としたのは、南北朝期から室町中期(1350~1500年)頃と推測されている。この時期が、山内首藤氏が最も勢力を拡大した時代であったとされる。山内首藤氏の最終的な居城は、七尾城であったと言われるが、七尾城に移った時期は不明である。永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子は、石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた。葛西氏は総力を挙げて攻撃したが、大森城・七尾城は陥落せず、やむなく兵糧攻め・長囲の計をめぐらしたため、遂に落城し、山内首藤氏は没落した。その後の桃生郡は葛西領に併呑され、大森城には葛西氏の家臣男沢氏が入城したと言う。

 大森城は、標高70m程の大森山という独立丘陵に築かれている。丘陵全体を城とした、規模の大きな山城で、山内首藤氏の勢威を感じさせる堂々とした造りである。中心に主郭を置き、西尾根に二ノ郭、東尾根に三ノ郭と東郭、北尾根に北郭を配している。主郭は南に内枡形の虎口を築き、虎口を守る櫓台などには石積みが散見される。主郭内は僅かな段差で東西に区画され、東部分は更に南北に区画されている。この内、北東部が一番高い位置にあり、主殿があったものと推測される。主郭外周には土塁が築かれ、主郭南辺では塁線に横矢掛かりが見られる。主郭外周は腰曲輪が築かれ、東・北・西の三面には切岸の下に横堀が穿たれて防御を固めている。この横堀は主郭東側の南端部では竪堀となって落ちている。二ノ郭周囲には幾つもの腰曲輪が築かれ、三ノ郭の先の東郭の基部には堀切が確認できる。この堀切も南端で竪堀となって落ち、竪堀の両側に腰曲輪が築かれている。以上の様に遺構はよく残っているが、城内は全体に藪が多く、歩いて回れない程ではないが遺構の確認は少々しづらい。南西麓に解説板があり、その先を直登したが、明確な道はなく、とにかく上を目指して登っていくしか無いが、主郭付近は普請の規模が大きく、見応えがある。石積みや桝形虎口などの遺構から考えると、戦国末期まで使用された大型の城だった様である。もう少し整備されていると、素晴らしいのだが。
主郭の横矢掛かりの切岸→IMG_5851.JPG
IMG_5862.JPG←櫓台を備えた主郭枡形虎口
東郭の堀切→IMG_5796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.501044/141.320958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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