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山田城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_4130.JPG←東側に落ちる圧巻の大竪堀
 山田城は、川崎城主塩谷氏の支城である。文明・長享年間の頃(1469~89年)に、塩谷孝綱の家臣山田泰業によって築城されたと言われている。箒川を挟んで、敵対する那須氏の勢力圏と対峙する最前線にあった。戦国末期の1585年には、この付近で宇都宮・那須両氏が激突した薄葉ヶ原の戦いがあり、塩谷伯耆守義孝の家臣で山田城主であった山田筑後守業辰(なりとき)は討死し、山田城は乙畑城と共に那須氏の攻撃を受けて落城したと伝えられる。

 山田城は、箒川の支流江川の西側に横たわる、比高50m程の丘陵上に築かれている。最高所に縦長の方形に近い形の主郭を置き、東側の斜面に段状に曲輪を築いており、主郭直下の平場がニノ郭とされる。主郭の北側には堀切を挟んで三ノ郭と思われる曲輪がある。この城の最大の特徴は、主郭の西側から南側を廻る大規模な空堀で、大きなL字状の堀が北斜面と東斜面に降っている。特に主郭南側から東斜面に落ちる竪堀は巨大で、その様は圧巻である。主郭の西辺から南辺には、この空堀に面して大土塁が築かれて背後を防御している。主郭の北側は、三ノ郭との間を分断する堀切に対して、塁線が内側に折れて横矢が掛けられている。主郭北東には大手と思われる虎口があるが、薮がひどくて形状が把握できない。一方、主郭の南東尾根には、前述の大竪堀に沿って小郭群が連なり、ニノ郭などの東斜面の曲輪群背後を防衛している。また三ノ郭の北側には土塁を築いた枡形虎口らしいものがあり、鳩ヶ森城二ノ郭のものと同形状である。この他、前述のL字状の大空堀の外周には帯曲輪が築かれ、更に南西に伸びる尾根を大堀切で分断している。空堀の南側の斜面にも平場群が見られる。以上が山田城の縄張りで、さすがに那須氏に対する最前線の城だけあって、臨戦的な縄張りである。
 尚、城までの明確な登道はないので、東斜面の山林を適当に登っていくしかないが、この東麓は低湿地となっていて、足を取られそうになる。水堀地帯か泥田堀地帯であったらしい。また城内は未整備の薮に覆われ、遺構の確認が大変である。遺構が素晴らしいだけに残念である。
主郭西側の空堀→IMG_4256.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(薮がひどいので☆1つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.841576/139.929761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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