引田城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←北側の切岸状の斜面
(2019年12月訪城)
引田城は、この地の土豪引田氏が築いたと推測されている。1560年に上杉謙信が初めて関東に出馬した際に、参陣した武士達の家紋をまとめて書き上げた『関東幕注文』には、引田伊勢守の名があり、この伊勢守が森山に引田城を築き、厩橋城の長野氏に従っていたと考えられている。尚、引田城の北西麓には小館跡があり、応永年間(1394~1428年)に引田左衛門尉盛利が拠った館と推測されている。
引田城は、比高10mに満たない独立小丘(森山と言う)に築かれている。小丘上には現在工場が建っている。そのため、敷地内に入ることができず周囲から見るだけであるが、丘という地勢以外は遺構は湮滅している。丘の周囲は切岸状の斜面で囲まれている。『日本城郭大系』の縄張図では、土塁で囲まれた南北にやや長い主郭と、その北側半周に土塁を有した腰曲輪を廻らしていたとされる。一応、斜面のガサ薮に突入してみたが、腰曲輪は確認できなかった。
一方、北西麓にある小館は、民家の敷地になっている。背後に当たる西側が高台となっていて、その崖に面した珍しい地勢に築かれた居館である。遺構はほとんど無く、北側に堀跡らしい水路があるだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.454358/139.066647/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2019年12月訪城)
引田城は、この地の土豪引田氏が築いたと推測されている。1560年に上杉謙信が初めて関東に出馬した際に、参陣した武士達の家紋をまとめて書き上げた『関東幕注文』には、引田伊勢守の名があり、この伊勢守が森山に引田城を築き、厩橋城の長野氏に従っていたと考えられている。尚、引田城の北西麓には小館跡があり、応永年間(1394~1428年)に引田左衛門尉盛利が拠った館と推測されている。
引田城は、比高10mに満たない独立小丘(森山と言う)に築かれている。小丘上には現在工場が建っている。そのため、敷地内に入ることができず周囲から見るだけであるが、丘という地勢以外は遺構は湮滅している。丘の周囲は切岸状の斜面で囲まれている。『日本城郭大系』の縄張図では、土塁で囲まれた南北にやや長い主郭と、その北側半周に土塁を有した腰曲輪を廻らしていたとされる。一応、斜面のガサ薮に突入してみたが、腰曲輪は確認できなかった。
一方、北西麓にある小館は、民家の敷地になっている。背後に当たる西側が高台となっていて、その崖に面した珍しい地勢に築かれた居館である。遺構はほとんど無く、北側に堀跡らしい水路があるだけである。
水路がある小館北側→
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.454358/139.066647/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平山城
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