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船生城(栃木県塩谷町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4569.JPG←二ノ郭の横堀
 船生(ふにゅう)城は、宇都宮氏の家臣君島氏の居城である。君島氏では、1351年に上野国那波荘で討死した君島備中守綱胤が知られる。この那波荘の戦いは、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱に関係したもので、駿河の要衝薩埵山に布陣した尊氏を支援するため、宇都宮氏綱は大軍を率いて宇都宮城を発した。12月5日のこととされる。同月19日、直義党の桃井播磨守直常・上杉氏家臣の長尾新左衛門尉景泰の軍勢を那波荘で撃破して進軍した。『太平記』では第30巻に「那和軍の事」と、わざわざ1章を割いて記載している。こうして宇都宮勢は諸国の軍勢を糾合しながら敵勢を駆逐しつつ、武蔵・相模を経由して足柄山に進出した。そして足利直義の軍に背後から迫って潰走させ、尊氏の勝利に大きく貢献した。その後鎌倉府の体制を刷新した尊氏は、宇都宮氏を上野・越後の守護とし、芳賀氏をその守護代に任じて、両者を鎌倉府の中核に据えた「薩埵山体制」を構築している。その後も君島氏は代々宇都宮氏に仕えたが、1597年に宇都宮氏が改易となると廃城になった。

 船生城は、船生市街の西側にある標高360m、比高80mの山上に築かれている。主郭に高圧鉄塔が立っているので、よい目印になる。私は船生小学校の裏から、北西に斜面を直登して尾根に至り、そこから尾根伝いに西に向かって城に登った。山頂の主郭と北に二ノ郭、西に三ノ郭を配した比較的小規模な城である。主郭と二ノ郭の間は横矢のクランクを設けた堀切で分断され、二ノ郭外周は横堀・帯曲輪で囲繞されている。またニノ郭は前後に土塁を築いている。三ノ郭は、主郭との間は自然地形の斜面だけで、区切りは明確ではない。曲輪内も削平が甘いが、先端に土塁と堀切を築いて、尾根筋を分断している。主郭は特に土塁はないが、前述の通り二ノ郭に対しては横矢の張出しがあり、虎口の脇に櫓台を設けている。主郭東側には腰曲輪が置かれ、東尾根に対して堀切を穿っている。主郭の南尾根には堀切がなく、自然地形のまま続いているが、少し先に虎口が築かれている。この他、東・北・西の尾根の先にはわずかに形が分かる程度の小堀切がある。遺構は以上で、良好に残っているものの、縄張りには防御の甘い部分も見られ(特に南尾根)、城としてはやや未成熟な印象を受ける。
主郭の櫓台の張出し→DSCN4610.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.769933/139.782175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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