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大宮城(栃木県塩谷町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4765.JPG←主郭西側の堀切
 大宮城は、宇都宮氏の家臣大宮氏の居城である。大宮氏は、下総の名族千葉常胤の孫大須賀嗣胤の曾孫胤景が、南北朝期に宇都宮公綱よりこの地を賜り、西ノ山に大宮城を築いて大宮氏を称したことに始まる。胤景は、1351年に上野国那波荘の合戦で討死した。この那波荘の戦いについては、船生城の項に記載する。また1380年、小山義政が宇都宮基綱を敗死させた裳原の戦いでは、その先手の軍勢に大宮兵部右衛門尉の名が見える。その後も大宮氏は代々宇都宮氏に仕えて大宮城を居城とした。『宇都宮興廃記』には、1585年に大宮城を再建したとあるので、この時に大規模な修築が行われたと推測されている。1597年に宇都宮氏が改易になると廃城となった。

 大宮城は、比高25m程の独立丘陵の東半部に築かれている。城域西側は日々輝学園高校のグラウンド造成で削られているため、遺構の一部が消滅しているが、大半の遺構はよく残っている。規模の大きな城で、大きく3郭から成るらしい。現地解説板の略図では、北西に主郭、その南に二ノ郭、東側に三ノ郭を配置しているとされるが、実態としては主郭と三ノ郭は入れ替わるのが正しいのではないかと思われる。即ち、北西が三ノ郭、その南に二ノ郭、東側に主郭という配置である。主郭は稲荷神社があり、外周に土塁が築かれている。東西を堀切で分断し、西側に虎口を設け、虎口に対して北側から横矢の張出しを設けている。主郭の北と南には腰曲輪を築いている。主郭西側の二ノ郭は、北側に土塁と空堀を築き、北東部に櫓台を設け、そこから北東に土塁が伸びている。この土塁の両側は空堀で、主郭と三ノ郭を分断する二重堀切となっている。二ノ郭南には横堀、その外側に土塁が築かれ、土塁西端部は櫓台らしい土壇となっている。この南西には麓に向かって降るクランクした城道があり、大手道であったらしい。三ノ郭は、いくつもの段で構成される曲輪で、西側が前述の通りグラウンド造成で削られているので、全貌は明確ではない。北側に土塁を築き、その外に「く」の字に折れた乾の大堀という空堀が穿たれている。乾の大堀の北西には古墳群がある。この他、主郭の東には城域東端の曲輪があり、愛宕神社が鎮座している。ここも数段の平場で構成され、社殿の背後にはクランクした掘切がある。東下方に忠霊塔の立つ腰曲輪が置かれている。
 以上が大宮城の概要で、この地域では規模が大きく、統治拠点的な城だったと思われる。遺構もしっかりしているが、全体に薮が多いのが残念である。
三ノ郭北側の乾の大堀→DSCN4801.JPG
DSCN4855.JPG←大手道

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.741928/139.870023/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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