藤倉山城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]
←主郭背後の空堀
藤倉山城は、大槻城とも言う。1559年、乙畑城に侵攻してきた結城晴朝に対抗するため、乙畑城の支城として築かれたと推測されている。しかし乙畑城将の乙畑孫四郎(川崎城主塩谷孝綱の子)が討死にして乙畑城は落城し、藤倉山城もそのまま廃城になったと考えられている。
藤倉山城は、比高わずか20m程の丘陵南端に築かれている。神社の背後にある山で、登道はないので適当に斜面を直登して訪城した。単郭の小城砦で、南に向かって広がった扇形状の主郭を持ち、斜面に面した南東以外の三方を北・西は空堀、東は腰曲輪で防御した縄張りとなっている。また主郭内は緩斜面の平場となり、後部に低土塁を築いている。この他、主郭の北東の谷部に平場があり、これも城の一郭であったと推測される。いすれにしても、一時的な陣城だったものと思われる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.733983/139.934460/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
藤倉山城は、大槻城とも言う。1559年、乙畑城に侵攻してきた結城晴朝に対抗するため、乙畑城の支城として築かれたと推測されている。しかし乙畑城将の乙畑孫四郎(川崎城主塩谷孝綱の子)が討死にして乙畑城は落城し、藤倉山城もそのまま廃城になったと考えられている。
藤倉山城は、比高わずか20m程の丘陵南端に築かれている。神社の背後にある山で、登道はないので適当に斜面を直登して訪城した。単郭の小城砦で、南に向かって広がった扇形状の主郭を持ち、斜面に面した南東以外の三方を北・西は空堀、東は腰曲輪で防御した縄張りとなっている。また主郭内は緩斜面の平場となり、後部に低土塁を築いている。この他、主郭の北東の谷部に平場があり、これも城の一郭であったと推測される。いすれにしても、一時的な陣城だったものと思われる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.733983/139.934460/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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