奥沢館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]
←西側の残存土塁
奥沢館は、那須氏の重臣角田氏(後に奥沢氏を称す)が天正年間(1573~92年)に築いた居館である。角田氏は、三浦氏の後裔を称し、元々は八幡館を本拠としていた。後に大関氏に従い、天正年間(1573~92年)に大関氏が八幡館に入って黒羽城を築くと、角田氏は奥沢館を築いてここに移り、奥沢氏を称したと言う。その後裔は江戸前期の寛永の頃に野上に移り、館は廃された。
奥沢館は、那珂川西岸の段丘上に築かれている。やや西に傾いた平行四辺形の単郭居館で、館跡の中心付近を十字に道路が貫通し、郭内は一部が民家、大半が水田に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。しかし交差点北西の民家の裏(西側)に土塁が残り、また南の薮の中にも土塁が残っている。西の堀跡には水路が流れ、南西角部の土塁もわずかな土盛りとなって残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.879535/140.113009/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
奥沢館は、那須氏の重臣角田氏(後に奥沢氏を称す)が天正年間(1573~92年)に築いた居館である。角田氏は、三浦氏の後裔を称し、元々は八幡館を本拠としていた。後に大関氏に従い、天正年間(1573~92年)に大関氏が八幡館に入って黒羽城を築くと、角田氏は奥沢館を築いてここに移り、奥沢氏を称したと言う。その後裔は江戸前期の寛永の頃に野上に移り、館は廃された。
奥沢館は、那珂川西岸の段丘上に築かれている。やや西に傾いた平行四辺形の単郭居館で、館跡の中心付近を十字に道路が貫通し、郭内は一部が民家、大半が水田に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。しかし交差点北西の民家の裏(西側)に土塁が残り、また南の薮の中にも土塁が残っている。西の堀跡には水路が流れ、南西角部の土塁もわずかな土盛りとなって残っている。
南側に残る土塁→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.879535/140.113009/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
お久しぶりです。
大田原から那珂川にかけて多数の城を取り上げていますが、知らない城ばかりですね。評価も低い城が多いですね。
こういう城ばかりだと見学数の数は稼げるけど、途中でイヤになりそうです。以前都内のもっと遺構のない城見学をしたときは、何を見に来たんだと最後は思っていました。説明板もなく、地元の人も城の認識がないと住宅地周辺は歩いていると不審者に思われそうです。遺構のよく残るメインの城との組み合わせでの見学でないと面白くないでしょうね。
by 史学会帰り新参 (2020-11-15 20:06)
>史学会帰り新参さん
設定エラーでコメントに気付くのが大変遅れてしまいました。申し訳ありません。
ま~、市街地なんかだと残念な城は多いですね~。
岩付城とか下妻城なんか、戦後までよく曲輪の形が維持されていたのに、高度成長期頃にみんな破壊されて地上からその姿を消してしまいました。
でもよく見ると、地形の高低差に痕跡が残っています。そういう城の探索は、ほとんどブラタモリとやっていることが同じです・・・。
by アテンザ23Z (2021-12-20 21:16)