SSブログ

上泉城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1865.JPG←主郭西側の堀跡
(2020年7月訪城)
 上泉城は、大胡城主大胡氏の一族とされる上泉氏の居城である。剣聖として名高い上泉伊勢守信綱(秀綱)の所縁の城でもある。上泉伊勢守の事績については諸説あるが、通説をまとめると大略次の通りとなる。永禄年間(1558~70年)に上泉城主であった信綱は、上杉謙信が関東に出馬すると上杉方に属し、箕輪城主長野業正の配下に入って奮戦した。業正が病死すると、武田信玄が上州攻撃を開始し、1566年、業正の後を継いだ業盛を滅ぼし、箕輪城を攻略した。この時信綱は、武田信玄からの仕官の誘いを断り、下野して武者修行者として諸国巡歴の旅に出たとされる。そして新陰流の開祖として、柳生宗厳(石舟斎)らに新陰流を伝授した。一方、信綱の子秀胤は、これより先に父信綱によって人質として小田原北条氏の元に送られ、そのまま北条氏の家臣となった。その後、第二次国府台合戦で討死したと言う。その後、秀胤の子と言われる主水泰綱が父の跡を継いだが、1590年の北条氏滅亡後は浪人となった。1600年の関ヶ原合戦前に、上杉景勝より軍備強化の一環で仕官を求められ、それに応じて上杉氏家臣となった。慶長出羽合戦の際、長谷堂城の戦いで直江兼続の配下で戦い、討死した。

 上泉城は、桃ノ木川と藤沢川に挟まれた段丘上に築かれている。城内は宅地化が進んでおり、明確な遺構は少ない。上泉町自治会館の北側に方形の小さな主郭があり、周囲より一段高くなっている。主郭内には江戸時代の郷蔵が残っている。主郭の西側は窪地状になっており、堀跡であることが明瞭であるが、西以外の三方は切岸だけになっており、堀跡はわからなくなっている。主郭の南には、堀を挟んで二ノ郭があったようだが、現在は自治会館等が建っており、遺構は湮滅している。ここには上泉伊勢守の銅像や石碑が立っている。西にやや離れて信綱の墓のある西林寺があるが、ここも城の一郭であったらしいが、段丘上にあるという他は明確な遺構に乏しい。また西の外れに玉泉寺があり、出城であったとされる。ここにはわずかに墓地裏に土塁らしい遺構が残っている。以上が上泉城の現況で、遺構としてはかなり残念な状況である。しかし城内やその周辺は「剣聖上泉伊勢守」の看板だらけで、地元の人の伊勢守への強い愛着を感じさせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.398643/139.109477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史 (県史)

群馬県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2014/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント