SSブログ

深沢砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8337.JPG←北辺部の土塁
 深沢砦は、1582年に北条・徳川両氏が武田遺領をめぐって争った天正壬午の乱の際、北条勢が築いたとされる砦である。本能寺の変が起きると、神流川の戦いで織田氏の部将滝川一益を破った北条氏直は、上州から佐久へ侵攻し、川中島での上杉勢との対峙を経て、甲斐・信濃の徳川勢を撃破するため大門峠から諏訪に入り、南下して8月6日に甲斐の若神子城に本陣を置いた。一方、徳川家康は同月10日、新府城に本陣を進めて北条の大軍と対峙した。以後、同年10月下旬に両者で和睦が結ばれるまで、2ヶ月半に渡る長期対陣となった。この間、両者によって多数の城砦が修築、或いは新造された。北条勢は若神子城を中心に七里岩台地上の各所に砦を築いているが、深沢砦もそうしたものの一つと考えられている。『甲斐国志』によれば、8月29日、徳川方に付いて中山砦を守っていた武川衆(釜無川流域の地域武士団)が花水坂で北条勢と戦い、北条の間者中沢某を討ち取り、山高宮内・柳沢兵部が首級を得たと言う。花水坂は、七里岩台地上の日野から釜無川と大深沢川との合流点に架かる花水橋に至る古い信州往還の道筋であった。花水橋は台ヶ原へ通じる交通の要衝で、深沢砦はこの花水橋を眼下に押さえる要地であり、花水坂合戦と関連する砦であったと推測されている。
 尚、一説には、深沢砦は元々武田氏の家臣深沢民部の城砦であったとも伝わるが、詳細は不明である。

 深沢砦は、釜無川と大深沢川との合流点の北側にそびえる城山と言う峰にある。砦とされる遺構は、南北に走る尾根の3ヶ所にあるとされるが、『甲斐の山城と館』によると明確な遺構が見られるのは真ん中の峰だけということなので、そこだけ踏査した。峰のすぐ側まで車道が通っているので、簡単に登ることができる。峰上には広い緩斜面の平場があり、一部に土塁も見られる。特に北辺部の円弧状土塁は明瞭である。また南端部はほぼ自然地形ではあるが平坦な緩斜面が舌状に伸びていて、物見としても好適な地であったことが伺える。
南端の平坦地→DSCN8353.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.811071/138.358544/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント