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先達城(長野県富士見町) [古城めぐり(長野)]

DSCN5102.JPG←常昌寺に残る土塁
 先達城は、武田信虎が諏訪攻めの為に築いた城である。1528年8月、信虎は諏訪氏の庶流下社金刺氏を押し立てて諏訪氏攻撃の兵を甲信国境付近に進めた。同月22日に蘿木(つたき)郷の小東の新五郎屋敷を城に取り立てたと伝えられ、これが先達城のこととされる。同26日には諏訪安芸守頼満・嫡子頼隆と対陣し、同晦日に神戸・堺川で二度の合戦があり、朝には武田勢が、晩には諏訪勢が優勢であったが決着はつかず、その後も両者の交戦は続いた。1535年9月17日に武田・諏訪両氏は和睦した。1539年12月に頼満が病死すると、その跡を継いだ孫の頼重は武田氏との協調路線を取り、翌40年に信虎は3女禰々御料人を頼重に嫁がせた。この時、先達城は諏訪方の持城となった。しかし1541年6月、信虎は嫡子晴信(後の信玄)によって追放され、翌42年、晴信は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と連携して惣領家の頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、諏訪一円は武田氏の支配下となった。この後、武田氏の家臣多田淡路守常昌が先達城主となった。以後、多田氏の居城となったが、常昌が1575年の長篠合戦で討死すると、先達城は廃城となり、常昌寺が建てられた。

 先達城は、鹿野沢川東岸の河岸段丘上に築かれている。現在常昌寺が建っている場所が主郭とされ、寺の背後に土塁がL字型に残っている。寺の北には二ノ郭があり、西から北にかけて帯曲輪が巡らされている。主郭と二ノ郭の間は墓地となっており、その中には多田常昌の供養碑(新たに再建されたもの)がある。また主郭の南は一段低く三ノ郭があるが、現在は運動場となっており、西辺にわずかに土塁が残っている。その南の四ノ郭は民家となっていて進入不能である。城跡らしさはかなり失われおり、遺構もわずかではあるが、城址碑・解説板が設置されていて、城の歴史を伝えている。
多田常昌の供養碑→DSCN5122.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.880697/138.294182/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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