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上原城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1203.JPG←ひな段状の曲輪群
 上原城は、諏訪氏惣領家の居城であり、その後武田氏の軍事拠点となった城である。築城時期は明確ではないが、室町後期の1466年には諏訪惣領家当主信満が上原にいたことが古文書から知られる。これに先立つ1456年、惣領の安芸守信満とその弟で大祝の伊予守頼満との間で争いが起きた。古代以来諏訪氏では、幼少時に大祝として神に仕え、長じてからは惣領として武士団・政権を司る祭政一致の形態が取られていたが、中世の動乱の中で、神事の権威である大祝と、諏訪一門の棟梁である惣領という二重構造を強めた。1456年の対立後、惣領信満は上原に拠って宮川以東を領すると共に一門を率い、大祝頼満は前宮に残って宮川以西を領すると共に祭祀を司ったと言う。従って、この頃には上原には諏訪惣領家の居館が置かれ、城下集落が形成されていたと考えられ、詰城である上原城も程なく築かれたと推測される。以後、政満・頼満・頼隆・頼重と5代70余年にわたり諏訪地方をこの地で統治した。また1456年以後、惣領家と大祝家とは分裂状態となり、諏訪氏は祭政分離となった。大祝頼満の子継満は、1483年正月8日に信満の子で惣領の政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺し、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした。しかし諏訪氏の一家眷属はこれを支持せず、大祝継満は失脚し、84年12月、先に継満に殺害された政満の2男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政一致に戻った諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。頼満の子頼隆は若死にし、1539年に孫の頼重が跡を継いだ。頼重は甲斐の武田信虎と同盟し、その息女を正妻に迎え、連年出兵を繰り返した。そのため郡内は疲弊した。1541年に父信虎を追放した武田(晴信)信玄は、翌42年、諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで諏訪頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。これにより諏訪惣領家の直系は滅亡した。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、諏訪一円は武田氏の支配下となった。その後、諏訪には信玄重臣の板垣信方が郡代として入り、上原城を大規模に改修した。信玄も着工間もない頃に上原城に来て、40日にわたって上原城などの普請を指揮し、諏訪統治の手配をした。以後、上原城とその館は、武田氏による諏訪統治の拠点と信濃攻略、また遠く美濃三河への中継基地として武田軍の重要拠点となった。特に武田軍の万に及ぶ大軍団が出陣・帰陣の際の中継基地として度々使用しており、それだけの兵団が滞在できるだけの機能がこの地に整備されていたことがわかる。1549年、統治所は高島城(茶臼山城)に移されたが、軍事基地としては機能し続けた。武田氏が上原城を使った最後は1582年2月で、武田勝頼は同年1月の木曽義昌の離反を受けて、諏訪郡代今福筑前守昌和らを木曽氏討伐に派遣し、自らも後詰として上原城に本陣を置いた。しかし間もなく始まった織田信長による武田征伐により、怒涛の如く侵攻した織田信忠率いる先鋒軍の前に伊那郡の武田勢は相次いで瓦解してしまった。また駿河でも江尻城を守っていた一族衆の重臣穴山梅雪が離反し、その報を受けた勝頼は2月27日、甲斐本国防衛のため新府城に撤退した。その後、伊那で最後まで残っていた高遠城を攻略した織田軍は諏訪に侵攻して諏訪上社を焼き払った。以後、上原城が使われた記録はなく、徳川・北条両軍が争った天正壬午の乱でも高島城が諏訪頼忠の拠点となっているので、上原城は織田軍による諏訪蹂躙後に廃城になったと推測される。

 上原城は、永明寺山の西斜面の末端の標高978.3m、比高200m程の小山に築かれている。中心に主郭を置き、周囲に輪郭式に曲輪を配した縄張りとなっている。主郭はほぼ方形の曲輪で、西以外の三方に低土塁を築いている。主郭背後には大堀切が穿たれている。南西下方に二ノ郭があるが、二ノ郭の先端部には大きな物見石という岩がある。更に二ノ郭下方には三ノ郭があり、ここには金比羅神社が建っている。三ノ郭の南に降る尾根が大手道で、中腹の板垣平と呼ばれる館跡(根小屋地区)に通じている。この尾根には小郭群が置かれ、堀切・竪堀も見られる。また二ノ郭・三ノ郭からは東と北に帯曲輪が伸び、北の帯曲輪の先には理昌院平と呼ばれる広めの腰曲輪がある。理昌院平の北西下方にも舌状の腰曲輪群が築かれ、北斜面まで曲輪が続いている。理昌院平の東端部は竪土塁が築かれていて、主郭背後の堀切から落ちる竪堀との間を区画している。理昌院平の北西下方の曲輪群の先には、石切場らしい場所があり、石積みや大穴地形がある。一方、主郭背後の大堀切の東には、はなれ山という出曲輪があり。その東も堀切で遮断している。また大堀切の南側に落ちる竪堀は二重竪堀となっている。その西側にも竪堀群が見られる。以上が上原城の砦部の構造で、高低差が大きく、曲輪の規模は小さいコンパクトな縄張りである。

 砦の南西の中腹には、前述の通り板垣平と呼ばれる館跡(根小屋地区)がある。広大な畑地となっており、その西側に家老屋敷と呼ばれる舌状曲輪が突き出ている。これらの周囲にも数段の腰曲輪が築かれている。

 戦国期に重要な軍事基地となった城であるが、砦部は意外なほどに小さくまとまっている。上野松山城でもそうであったが、大きな城というのは中継基地や前進基地としては以外に不便であったのかもしれない。
大堀切から落ちる竪堀→DSCN1221.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.009056/138.148656/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

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