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木曽氏居館(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4218.JPG←大通寺の山門
 木曽氏は、木曽義仲の後裔を称する豪族であるが、当初は藤原氏を称していた。南北朝期に木曽家村が足利尊氏に従って戦功をあげ、信濃国、近江国などに所領を与えられ、木曽に入部して須原に本拠を置き、妻籠城など木曽の各所に城砦を築いた。また家村は子供達を木曽谷の各地に分封し、黒川氏・千村氏・馬場氏らを輩出して木曽谷に勢力を扶植した。応永年間(1394~1428年)に木曽親豊が小丸山城を築いて木曽福島に本拠地を移し、更に1509年に木曽義在が上之段城を築いて居城とした。その子義康の時、武田信玄の侵攻を受けるようになり、詰城として福島城を築いて防備を固めた。しかし1555年に武田氏の木曽攻撃が本格化すると、義康は抗しきれず武田氏に服属した。義康は娘の岩姫を人質として甲府に送り、代わりに信玄の三女真理姫を嫡男義昌の正室に迎え、以後木曽氏は武田氏の親族衆として厚遇された。義昌も上之段城を居城とした。1582年、新府城築城などの賦役増大に不満を募らせた義昌は、武田勝頼から離反して織田信長に寝返った。これが直接の契機となって信長による武田征伐が開始され、伊那谷から侵攻した織田信忠率いる織田氏の大軍の前に、武田領国は瞬く間に崩壊し、同年3月勝頼は追い詰められて自刃し、武田氏は滅亡した。その後、本能寺の変、徳川・北条・上杉の3勢力による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」を経て、義昌は徳川家康に服属した。1584年に羽柴秀吉と徳川家康が小牧長久手の戦いで対陣すると、義昌は秀吉に通じ、徳川方の深志城主小笠原貞慶に攻撃され、上之段城は焼き払われた。羽柴・徳川両氏の和睦後、秀吉の命で信濃諸将の管轄は徳川氏に一任され、義昌は再び徳川氏に服属した。1590年に徳川氏が関東に移封となると、義昌は下総国海上郡阿知戸(網戸)1万石に移封となった。5年後に義昌は網戸城で没し、1600年頃、その子義利の時に改易となった。以上が木曽氏の歴史の概観であるが、木曽福島にある木曽氏居館は上之段城当時の居館があった地とされる。しかし福島城南麓にも居館地とされる場所があり(江戸時代の山村代官屋敷の場所)、それとの関係は不明である。

 木曽氏居館は、現在の大通寺敷地にあったと言われる。木曽川左岸の上之段と呼ばれる段丘上にあり、上の段の福島宿から狭い路地を東に入った奥にある。上之段城の西麓に当たる。遺構はないが、南の八沢川を挟んだ丘の上には小丸山城が見える。尚、大通寺境内には木曽義昌の正室で武田信玄の娘であった真理姫の供養塔が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.848787/137.697669/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:居館
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