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日宮城(富山県射水市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6018.JPG←北東の曲輪群の遠望
 日宮城は、火宮城とも記載され、射水・婦負郡守護代神保氏の重要拠点である。1560年、椎名氏救援のために越後守護代長尾景虎(上杉謙信)が越中に侵攻した際、神保長職は富山城を放棄して増山城へ逃れ、長尾勢の追撃を受けて再び落ちのびて行方知れずとなった後、1562年には再び増山城を居城としているが、その間の一時期、長職の居城となったとも言われる。また神保源七郎が城主であったとも伝わっている。その後、神保氏家中は親上杉派、反上杉派に分裂して争い、神保父子も長職は上杉方に、子の長住は反上杉方にと分裂した。この家中の争いの中で実権は徐々に親上杉派の小島職鎮に奪われて上杉方への従属化が進み、長職の死後には家臣の大部分が上杉氏の家臣となり、流浪の身となった神保長住は後に織田信長を頼った。1572年、上杉勢の最前線となった日宮城の守将であった神保覚広・小島職鎮ら神保氏旧臣4将は、加賀越中の一向一揆勢の猛攻を受け、和睦して開城し、石動山に退去した。その後日宮城は歴史から姿を消した。

 日宮城は、旧北陸道の南にある比高20m程の丘陵上に築かれている。起伏のある丘陵地で、大きく3つの丘陵に分かれ、それぞれに曲輪が築かれている。西に日宮社が建つ最も小さい曲輪があり、その東に谷を挟んで薬勝寺の境内となっている曲輪、その北東に山林などになっている曲輪がある。どれが主郭に当たるのかには諸説あるが、最高所に当たるのは北東の丘陵で、これが主郭に当たると思われる。しかしこの丘陵は立入禁止となっていて、内部の探索はできない。遠目に平場があるのが確認できるだけである。スーパー地形や佐伯氏の縄張図によると、3段の平場に分かれている様である。薬勝寺がある曲輪は、中央に小高い平場があり、東に坂土橋の様な土壇が張り出している。この小高い平場の南や西は腰曲輪らしいが、墓地となって改変されている。また薬勝寺の北東にも櫓台の様な土壇がある。その北には北東の丘陵との間を区切る谷があり、小道が貫通している。この谷は往時の堀切跡の可能性がある。日宮社がある曲輪は面積も小さく、物見台的な曲輪である。以上が日宮城の現況で、最も遺構が残っていると思われる部分には入れず、その他の部分は改変が多いので、ちょっと物足りなさを感じる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.704924/137.085214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

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