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宮ヶ崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9536.JPG←主郭外周の土塁
 宮ヶ崎城は、大掾氏の庶流鹿島氏の流れを汲む宮ヶ崎氏の居城である。鎌倉前期の1220年代に鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹がこの地に分封されて宮ヶ崎氏を称した。宮ヶ崎氏初代家幹の居城は、宮ヶ崎城の南方550mの位置にある「きゅうでん堀」と呼ばれる方形館(宮ヶ崎古館)であったとされ、鎌倉末期の頃に宮ヶ崎城が築かれて居城を移したらしい。南北朝期の1338年に南朝方の柱石北畠親房が南朝勢力再建のため常陸に入ると、宮ヶ崎又太郎幹顕は北朝方として、佐竹義篤の家臣小野崎正通・二方左衛門尉や大掾氏一族の鹿島幹寛・烟田時幹らと共に神宮寺城阿波崎城攻撃に参加している。こうして南北朝期~室町初期には勢力を拡大し、鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持つに至り、鹿島大使役として3度、鹿島神社七月大祭の祭司を務めた。その後、1416年の上杉禅秀の乱の際、宮ヶ崎氏は禅秀方に付いて烟田氏・江戸氏らに敗れて滅亡し、宮ヶ崎城は一旦廃城となった。時代は下って戦国中期の1550年頃、江戸氏の支配時代に宮ヶ崎城は再整備されて現在の姿になったと推測されている。

 宮ヶ崎城は、涸沼南岸に突き出した比高25mの段丘先端に築かれている。北端に五角形状の主郭を置き、その南から東にかけて二ノ郭・三ノ郭を梯郭式に配置した縄張りであった。現在は城内は耕地化によって改変され、しかも県道16号線が三ノ郭を貫通しているため、かなり破壊を受けている。それでも主郭は比較的遺構がよく残り、外周の土塁や空堀がかなり残存しており、特に主郭背後は大土塁となっている。また主郭周りの空堀の北西の外側に、外周を防御する土塁が残存している。しかしいずれも未整備の薮に覆われて、踏査が大変である。二ノ郭・三ノ郭は全面的に畑に変貌している。二ノ郭・三ノ郭の間には堀がなく、段差だけで区画されていた様である。三ノ郭は郭内が何段かの平場に分かれており、東の畑の中には「宮崎氏寺跡」という標柱が立っている。三ノ郭の南東部には、自然地形の大きな谷戸があり、外堀の役目を果たしていたようで、土橋状の地形が確認できる。宮ヶ崎城は、全体に地勢はよく残っており、往時の雰囲気は比較的わかりやすいが、遺構の改変が進んでおり、残った遺構も未整備の藪に埋もれているのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.267010/140.475612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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