SSブログ

やっぱりな。「SSブログ」事業の譲渡 [日記]

本日、「SSブログ」事業がSo-netからシーサーに譲渡されるとのお知らせメールが入った。

やっぱりな。

去年、So-netブログからSSブログに名称変更されたが、
名前が変わっただけでなく、ドメインまでso-net.ne.jpからss-blog.jpに変わったので、
おそらくSo-netからブログ事業を切り離す準備だろうと察しがついていた。

最近は、Nifty、Yahoo、GeoCitiesなど、ブログ事業からの撤退が相次いでいたので、
So-netも遠からず切り離すんだろーなと思っていた。

当面は、新会社の下でブログ事業が継続されるようだが、
料金などの条件もまだわからないし、
先々までブログ事業が継続される保証もない。

備忘録として始めたこのブログも、
お陰様で歴史や中世城郭に興味をお持ちの方々から
多数のアクセスを頂いて今日に至っているが、
いずれは独自ドメインを取得して、新たなHPを立ち上げないといけなくなるかもしれない。
そうなると移行作業が膨大で、記事更新どころの話じゃなくなるなぁ・・・。
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麓城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5951.JPG←見晴台となっている二ノ郭
(2019年11月訪城)
 麓城は、麓館とも言い、戦国後期に鶴巣楯主黒川安芸守晴氏(月舟斎)の家臣、入生田右兵衛佐の居城である。現地解説板によれば、天正年間(1573~92年)の戦いで敗れ、以後は伊達氏に属し、文禄年間(1592~96年)まで居住したと言われる。後に涌谷伊達氏に仕え、涌谷に居地を移したと伝えられる。
 尚、時代は遡って南北朝期の話となるが、1353年に南朝方の中院大納言らの軍勢が立て籠もった城として「黒川郡吉田城」が『鬼柳文書』の中に出てくる。沼舘愛三著『伊達諸城の研究』では麓城を「吉田館」として記載しており、想像にはなるが、南朝が立て籠もった吉田城が、麓城の前身であった可能性もあるだろう。

 麓城は、石神山精神社の裏山に築かれている。比高50m程で、現在は館山公園となっていて主要部だけは整備されている。神社横から登り道が整備されている。Mの字形になった尾根上に曲輪群を展開した城で、中央の尾根に縦長三角形状をした主郭がある。主郭は紫陽花がたくさん植えられており、西辺に低土塁が残っている。主郭の北東には段曲輪1段を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭は公園の見晴台になっていて、城址解説板も立っている。公園として整備されているのはここまでである。主郭の西には尾根が張り出しているが、この尾根と主郭との間に2段に分かれた低地の平場があり、城主居館があった様に見受けられる。西尾根は、この平場の背後を防御する、削り残しの高土塁となっており、主郭との間には小堀切が穿たれている。また主郭南には堀切を挟んで馬蹄形の曲輪が築かれている。この曲輪の背後には巨石を利用した障壁があり、前述の堀切はこの巨石の裏側に穿たれている。主郭の西と東の斜面には帯曲輪が築かれ、この堀切が城内通路となって双方の帯曲輪を繋いでいる。また二ノ郭の南尾根にも曲輪群が築かれている。南尾根の北端は独立した高台になっていて、物見台となっていたらしい。その南は小堀切となっていて、神社からの登道はここに登ってくるようになっている。堀切の南に細尾根上の曲輪が南北に2つ連なり、それらの間も堀切で分断されている。南の曲輪の南端は空堀と腰曲輪が築かれ、そこから東に降る堀状の城道が見られる。また南の曲輪の東側にも何段かに分かれた曲輪群があり、北辺に坂土橋を兼ねた土塁が築かれている。ここから登った道は、細尾根上の南北の曲輪の間に穿たれた堀切に接続している。以上が麓城の概要で、大規模な城ではないが、遺構がよく残っている。
二ノ郭南尾根の堀切→IMG_6043.JPG
IMG_5993.JPG←主郭西下にある居館地

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.446615/140.837163/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


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