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安土城 その2(滋賀県近江八幡市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_7405.JPG←馬場平腰曲輪の3段石垣
(2019年12月訪城)
 15年ぶりに安土城を再訪した。15年前の私はまだ山城初心者だったため、観光ルート以外の遺構を全く見逃していたので、その他の遺構を踏査した。

 今回踏査したのは、東尾根の曲輪群である。こちらの散策路は東門道と呼ばれ、何故か城郭関係のサイトでは、このエリアの遺構には触れたものはほとんどない。私は南東山裾の蓮池付近の曲輪群を追っていったら、東尾根曲輪群の先端に当たる御茶屋平下の腰曲輪群にたまたま行き着いた。よく調べたら、弘法大師堂の脇からちゃんと登道があった。この道を登ると東門跡の桝形虎口に至る。その上が前述の御茶屋平と言う曲輪で、外周は石垣で囲まれ、角は算木積みとなっている。その南下方のいくつもの腰曲輪群にも石垣が随所に見られる。これらはいずれも、復元整備の手が入っていない古態をとどめた石垣群で、城の中心部の石垣と比べると、積まれている石がやや小ぶりで、石垣の高さもそれほど高くない。中には、鉢巻石垣の様な低いものもある。

 ここから西に向かってしばらく登っていくと、馬場平という東西に長い曲輪があり、その東のピークには神様平という曲輪がある。ここも多数の石垣群がある。ただ南側の石垣はあまり高さがなく、しかも3段の腰曲輪に石垣を築いて、3段石垣としており、ちょうど金沢城の辰巳櫓の3段石垣の様である。

 この馬場平には、安土城築城以前に六角氏の重臣目賀田氏が守っていた目賀田城が築かれていたと言われる。ただこの話は『日本城郭大系』にも『図説 中世城郭事典』にもなく、話の出元がよくわからない。この話が本当だとして、安土山のピークではなく、わざわざ東の尾根のピークに城を築いたことは、六角氏の本拠観音寺城に対して独立した城砦として築いたと言うよりも、観音寺城の西麓を抜ける街道を監視し押さえるために築いた、関所的な役割を負っていたと考えられる。

 馬場平から奥は、立入禁止となっている。この後は一旦下山し、大手道から中心部の遺構を回ったが、15年前と同様、三ノ丸や八角平は立入禁止となっていた。

 今回、再訪してわかったが、安土城は外周部の腰曲輪に至るまで、おびただしい数の石垣を築いた、全曲輪総石垣の城郭であったことがわかる。しかし縄張り的には、戦国後期の中世城郭の延長線上にあることも明らかである。よく信長も安土城も革命的と謳われるが、実際にはそれまでの歴史の延長線上にあり、過大評価することは危険である。それは、これらの埋もれた遺構群を見ると実感できる。ただ、中央政権の権力者としてこれまでの城にはない規模で石垣を構築し、権勢の象徴としての城にその役割を大きく変質させたのも確かである。いずれにしても、古いたたずまいを残した古色蒼然とした石垣を見るなら、東曲輪群がオススメである。
御茶屋平の石垣→IMG_7337.JPG
IMG_7368.JPG←御茶屋平石垣の算木積み
東門の桝形虎口→IMG_7388.JPG
IMG_7302.JPG←蓮池曲輪群の石垣・虎口

 場所:【馬場平】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.154565/136.143039/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


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津久毛橋城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7168.JPG←主郭
(2019年11月訪城)
 津久毛橋城は、南北朝時代に南朝の将北畠顕信が立て籠もった城である。古くは平安末期に、大軍を率いて奥州藤原氏を討伐した源頼朝が、松山道を経てこの地、津久毛橋に至ったと言う(『吾妻鏡』)。1189年8月21日のことである。この時、頼朝に付き従っていた梶原平二景高(梶原景時の次男)は、
  陸奥(みちのく)の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸
と詠み、頼朝に献じたと伝えられる。南北朝時代には、奥州南朝軍と北朝軍の決戦の地となった。『鬼柳文書』等の古文書によれば、1342年に北畠顕信率いる南朝勢は、「三迫・つくもはし(津久毛橋)・まひたの新山林、二迫のやハた(八幡)・とや(鳥谷)」の5ヶ所に「たて」(楯、城郭のこと)を築いて陣を張った。対する北朝方の奥州総大将石塔義房は、向城として鎌糠城(大原木楯か?)を築いたと言う。この地で対峙した両軍は、三迫合戦と呼ばれる大会戦を行った。北朝方は南朝の諸城を次々と攻略し、最後の拠点となった津久毛橋城を攻め落として南朝勢を討ち破り、敗れた顕信は出羽方面に逃れた。

 津久毛橋城は、比高わずか20m程の小丘に築かれている。登道が整備され、主郭は公園化されているので訪城は容易である。眼前の平地の向こうには、北朝方の本陣鎌糠城であった可能性のある大原木楯がそびえている。津久毛橋城の東の尾根は削られて湮滅しているので、縄張りの全容は不明であるが、上州松山城の様な、段々に曲輪群を築いた小型の平山城である。段は畑などになっているが、形状はよく残っている。頂部の主郭は東西に細長い曲輪で、あまり広くはないので、多数の兵を籠めることはできない。前述の通り東尾根は湮滅しているが、ここに堀切が穿たれていた可能性もある。
 南朝方の本陣としては随分と小規模であるが、それは周辺諸城と連携して「面」として戦線を構築していたからであろう。ちょうど越前で、北朝方の大将斯波高経が足羽七城の連環城砦群で新田義貞の猛攻に耐え凌いだのと同じである。しかし、周辺諸城が攻略されて孤立してしまうと、この小城ではひとたまりもなかった。
 尚、主郭には、源義経の北行伝説の立役者杉目太郎行信の供養碑が立っている。
南斜面の腰曲輪群→IMG_7149.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.822842/141.036741/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

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  • 作者: 佐藤 進一
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/01/01
  • メディア: 文庫


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大原木楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7088.JPG←主郭東側の横堀
(2019年11月訪城)
 大原木楯(大原木館)は、鈴木館とも言い、この地の土豪鈴木氏の居城である。元は源義経の重臣鈴木三郎重家の館であったとされ、鈴木氏はその後裔を称していた様だが、鈴木重家への仮託であろう。戦国末期には、鈴木高重、或いは鈴木三河守が城主で、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で主家が改易されて没落、同年に生起した葛西大崎一揆において桃生郡深谷陣で討死したと言う。
 一方でこの地は、南北朝時代に行われた合戦の舞台ともなった。『鬼柳文書』等の古文書によれば、1342年に北畠顕信率いる南朝勢は、「三迫・つくもはし(津久毛橋)・まひたの新山林、二迫のやハた(八幡)・とや(鳥谷)」の5ヶ所に「たて」(楯、城郭のこと)を築いて陣を張った。対する北朝方の奥州総大将石塔義房は、向城として鎌糠城を築いたと言う。この北朝方の本陣鎌糠城が、大原木楯付近にあった様である。或いは大原木楯が鎌糠城そのものであった可能性もある。いずれにしてもこの地で対峙した両軍は、三迫合戦と呼ばれる大会戦を行い、北朝方が南朝勢を討ち破り、敗れた北畠顕信は出羽方面に逃れた。
 尚、沼舘愛三著『伊達諸城の研究』によれば、大原木は古代城柵が築かれた地ででもあり、木は即ち「城(き)」の意味であると言う。

 大原木楯は、標高60m、比高35m程の東西に長い丘陵上に築かれている。重家の妻が夫の討死後に尼僧となったという伝説の残る喜泉院の裏山で、喜泉院の墓地裏から山林に分け入れば、もうそこは城内である。大きく東西2郭で構成され、東が主郭、西が二ノ郭で、これらの間は堀切で分断されている。この堀切は、墓地からも見ることができる。二ノ郭の北斜面は段々に腰曲輪群が築かれており、現在墓地の段になっている部分も元々腰曲輪であったと思われる。主郭の北側は、腰曲輪1段の下は大切岸となっているが、その下方の墓地の部分はやはり腰曲輪群であったのだろう。主郭内は激しい薮となっているが、1m程の段差で区切られた東西に連なる3段の平場で構成されていることが辛うじて分かり、東北端には一段低く腰曲輪が築かれている。一方、二ノ郭は主郭より狭く、平場は1段だけで内部には墓石がいくつも投棄されている。この城で出色なのは、主郭・二ノ郭の南斜面に構築された、長大な二重横堀の防御線である。この構造は、姫松楯にも通じるもので、主郭の北東斜面から二ノ郭の西斜面までを延々と囲っている。途中には竪堀が数ヶ所落ち、塁線が屈曲して横矢が掛けられている。主郭北東では更に堀切を加えて三重横堀となっており、主郭東端の虎口から内堀・中堀へ連結した2つの土橋が架けられている。また二ノ郭西の二重横堀は、南側は二ノ郭南に回り込んでいるが、北側では外堀はそのまま尾根を堀切り、内堀は二ノ郭北に回り込んでいる。内堀・外堀の間の土塁は、内堀とともに二ノ郭北側に回り込み、少し東に伸びた先でL字に曲がって、二ノ郭切岸に繋がっている。前述の主郭・二ノ郭間の堀切は、南1/3程が主郭側に折れ、竪堀に変化して裏の二重横堀に繋がっている。
 室町時代にこの地域では大崎・葛西の両勢力が拮抗し、勢力拡大や自衛の為の防御施設として山城や居館が盛んに築城されたと言われている。大原木楯も、そうした状況を象徴するような緊張感のある縄張りである。ただ、一部を除いては全体に薮がひどく、横堀を辿っていくのも大変で、特に主郭南側では撤退を余儀なくされた。
主郭・二ノ郭間の堀切→IMG_6862.JPG
IMG_6957.JPG←二ノ郭南の横堀
主郭東端の土橋→IMG_7087.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.808881/141.027278/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


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沢辺楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6718.JPG←主郭
(2019年11月訪城)
 沢辺楯(沢辺館)は、臥牛館とも呼ばれ、葛西氏の家臣沢辺氏の居城である。沢辺氏の祖は二階堂刑部常信と言い、葛西氏の祖葛西清重に仕え、正治年間(1199-1201年)に胆沢郡衣川からこの地に移り、沢辺楯を築いて居城とし、沢辺氏を称した。この地で4代続いたが、この地が大崎氏の支配下になるとこの地を離れ、岩井郡黒沢村の霞館に移り、1448年には同郡油田村の蒲沢館に所領を移された。12代肥前重光の時、1576年の葛西大崎合戦で葛西勢が大勝したことにより、この地は再び葛西領となり、重光は沢辺楯を再び居城とした。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易・没落すると、沢辺新左衛門は伊達氏に召し出され、弟の藤兵衛はこの地で帰農したと言う。

 沢辺楯は、比高30m程の丘陵上に築かれている。眼下に三迫川を望む舌状台地で、現在は臥牛館公園となっている。主郭は南端にあり、ほぼ方形で5m程の切岸で囲まれ、愛宕神社の小祠が祀られている。主郭の西から北にかけて三ノ郭が広がり、三ノ郭東辺の土塁は主郭の北端に繋がっている。三ノ郭の北斜面にも腰曲輪群が3段程築かれている。また三ノ郭から少し離れた北東に、高台となった二ノ郭が築かれている。二ノ郭の中央には円形の塚がある。二ノ郭の西側や北東部にも何段も腰曲輪が築かれ、北西角は橫矢の張り出しとなっている。主郭東側から二ノ郭周囲にかけて広がる平場も腰曲輪で、更に東斜面や三ノ郭の西側にも腰曲輪が築かれている。往時は台地基部に2本の空堀があったとされるが、小学校敷地となった際に湮滅した。
 沢辺楯は、全体的に遺構はよく残っているが、あまり技巧性のない縄張りで、居館機能を優先した城であったと思われる。
二ノ郭西側の腰曲輪群→IMG_6816.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.795554/141.058542/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


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梨崎楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6657.JPG←主郭の切岸
(2019年11月訪城)
 梨崎楯(梨崎館)は、『日本城郭大系』では梨崎城と記載される。城主は梨崎近江とも、清原隆久の裔孫三宮讃岐守重隆が有賀城から移ったとも言われる。

 梨崎楯は、比高30m程の低丘陵先端部に築かれている。東麓から住宅脇を抜けて山林内に登っていく道があるので、それを登って山に入り、後は適当に登っていけばよい。東側は腰曲輪群になっており、段々に平場が築かれている。中には、内枡形のような地形も見られる。山内は薮が多いので、少々見栄えしないが、遺構はよく残っている。城の中心に主郭があるが、高さ3~4mの切岸で囲まれており、ーOーという珍しい形状の主郭である。主郭には土塁はなく、主郭の周りは幅広のニノ郭で囲まれている。主郭の背後に当たる西側には堀切が穿たれ、南北の二ノ郭を繋ぐ城内通路を兼ねている。この堀切の南は二ノ郭から南斜面に落ちる竪堀となっている。またこの堀切の北側は、後述するクランクする堀に繋がっている。堀切の西には独立小郭を挟んで更に堀切が穿たれており、主郭の西側は二重の堀切で台地基部を分断していることになる。外側の堀切は、南は一直線であるが、北側では大きく東側にクランクして、最後は北斜面に竪堀に変化して落ちている。この竪堀に沿って、その東側に最下段の腰曲輪の西端部から落ちる竪堀があり、二重竪堀となっている。この北下方には溜め池があり、二重竪堀はそこに落ちている。往時も溜め池があったとすれば、船着き場との通路を兼ねていた可能性もある。この他、二ノ郭の北・東・南の三方には腰曲輪群が築かれている。草木が多くてわかりにくいが、南東に竪堀状虎口があり、それに直交する形で南腰曲輪へ通じる横堀状の切通し虎口が築かれている。また南東に張り出した尾根上の曲輪には、その付け根の両側に堀切が穿たれ、これも竪堀状虎口として機能していたらしく、北のものは住宅脇の登り道まで通じている。以上が遺構の概要である。
 室町時代にこの地域では大崎・葛西の両勢力が拮抗し、勢力拡大や自衛の為の防御施設として山城や居館が盛んに築城されたと言われている。梨崎楯も、大きくクランクした空堀や竪堀など、そうした状況を象徴するような実戦的な縄張りを垣間見せている。大崎氏勢力の城であった高根城と縄張り的に共通点が見られ、梨崎楯も大崎氏勢力が築いた可能性が考えられる。
クランクする空堀→IMG_6631.JPG
IMG_6609.JPG←西側の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.790051/141.066931/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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姉歯下楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6515.JPG←主郭~西郭間の堀切
(2019年11月訪城)
 姉歯下楯(姉歯下館)は、奥州藤原氏4代泰衡の家臣であった姉歯平次光景の後裔、姉歯右馬允の居城と伝えられる。姉歯氏は、室町時代には大崎氏の家臣となり、大崎氏最後の当主義隆の時代まで大崎氏に仕えた。1590年に姉歯下館は落城したとされる。その後、仙台伊達藩の支配下となると姉歯氏は伊達家家臣となったらしく、戊辰戦争の際に新政府軍参謀の世良修三を暗殺した仙台藩士姉歯武之進を輩出した。

 姉歯下楯は、標高56m、比高40m程の東西に長い丘陵上に築かれている。東端部近くの市道脇に解説板が立っており、その脇から登道が付いている。東端から西に登るとすぐに切通し状の大手道があり、クランクしながら台地上に登っていく。このクランクした大手道の脇には櫓台の様な土壇が見られ、登城道を防衛していたと見られる。その先は竹林となった東郭があり、西側に堀切が穿たれている。その先にやや起伏のある曲輪が続き、いくつかの腰曲輪の段の先に二ノ郭がある。二ノ郭前面には枡形の様な地形や虎口の様な溝地形があるが、形状があまりはっきりしない。二ノ郭は2~3m程度の切岸で区画され、その外周に広い腰曲輪群を伴っている。二ノ郭には、姉歯氏の末裔の郷土史家が立てた小さな石碑がある。二ノ郭の南西には大きな繋ぎの曲輪が続き、その先に三角形をした主郭がある。主郭も二ノ郭同様、切岸で囲まれ、外周に腰曲輪を伴っている。主郭内は薮がひどく、進入は困難である。主郭周囲の切岸はニノ郭より大きく、4~5m程ある。主郭の腰曲輪は幅が狭く、主郭の北から西にかけては横堀となっている。北尾根・西尾根ではこの横堀がそのまま堀切を兼ねている。主郭の西尾根には西郭が置かれ、先端に腰曲輪が2段築かれて城域が終わっている様だ。主郭南側の腰曲輪も一部が横堀状となり、竪堀状の城道が落ちている。以上の様に、姉歯下館は傾斜の緩い台地の上に、浮島の様に主郭・二ノ郭を間隔をおいて配置している。遺構はよく残っているが、薮が多い部分もあって、あまり見栄えしないのが残念である。
クランクする大手道→IMG_6386.JPG
IMG_6406.JPG←東郭西側の堀切
二ノ郭切岸と腰曲輪→IMG_6423.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.781170/141.062962/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


仙台藩「留守居」役の世界―武士社会を支える裏方たち (よみがえるふるさとの歴史)

仙台藩「留守居」役の世界―武士社会を支える裏方たち (よみがえるふるさとの歴史)

  • 作者: J.F.モリス
  • 出版社/メーカー: 蕃山房
  • 発売日: 2015/06/01
  • メディア: 単行本


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若柳城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6369.JPG←主郭の給水施設
(2019年11月訪城)
 若柳城は、新井山館とも言い、葛西氏の家臣千葉豊後の居城であったと伝えられている。古くは八幡太郎源義家の陣所であったとも言われるが定かではない。室町時代には、この地は元々大崎氏の勢力下であったが、葛西晴信はこの地を攻め取り、若柳城を築いて千葉豊後に守らせたと言う。

 若柳城は、迫川南岸の標高39.1mの丘陵上に築かれている。東麓の車道脇に標柱が立っており、その近くから主郭にある給水施設までの登道が付いている。主郭は給水施設となっているので、破壊を受けているが、周りの切岸などは往時の姿を部分的に残しているように思われる。また周囲には腰曲輪状の段があり、曲輪の形態は残っている様だ。東の山林内にもいくつかの平場が見られ、切岸らしい段差も確認できる。『日本城郭大系』では北側に二重の空堀があると記載されているが、空堀については確認できなかった。全体的に城の雰囲気は残っているものの、改変により遺構が今ひとつ明確でないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.775148/141.113580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

  • 出版社/メーカー: 名著出版
  • 発売日: 2020/05/06
  • メディア: 単行本


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金鶏山楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6339.JPG←主郭内の薮に埋もれた看板
(2019年11月訪城)
 金鶏山楯(金鶏山館)は、前九年の役の頃に安倍貞任・宗任の拠点として築かれたと言われ、1062年に源頼義が奪取し、陣所として使用したとされる。しかし明証はない。

 金鶏山楯は、標高71m、比高60m程の金鶏山に築かれている。山の南東の山腹に昌学寺の墓地が広がっており、墓地の西端から登山道が伸びている。しかし山頂近くで登山道が途切れてしまうので、そこからは斜面を登っていくしかない。頂部に築かれた主郭とその周囲の帯曲輪だけから成る単純な構造の城である。一応主郭内に城址看板が建っているが、主郭内は未整備の薮だらけで、標柱も薮で埋もれてしまっている。帯曲輪は北側のものは明瞭で、主郭内に入る虎口も確認できるが、それ以外は薮もあってはっきりしない。『日本城郭大系』では南東部に浅い空堀も穿たれていると言うが、薮でよくわからなかった。遺構から見る限り、かなり古い形態を留めた城と考えられ、前九年の役にまつわる城跡というのも、あながちただの伝説ではないのかもしれない。
帯曲輪から主郭に登る虎口→IMG_6342.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.771886/141.173340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/29
  • メディア: 単行本


タグ:古代山城
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高森古楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6307.JPG←主郭の切岸
(2019年11月訪城)
 高森古楯(高森古館)は、坂上田村麻呂が奥州征伐の際に陣城としたとも、前九年の役の際に安倍貞任が築いた陣城とも、或いは奥州藤原氏の要害であったとも言われる。しかしこれらの伝承は奥州各地の古城にあるので、どこまで史実を伝えているのかは不明である。

 高森古楯は、比高40m程の低丘陵に築かれており、現在主郭には五十瀬神社が鎮座している。東麓の県道脇から参道が整備されているので訪城は容易である。主郭は高台になっており、そこへ登る中腹の階段脇に五十瀬神社の由緒書と「高森古館跡」の城址看板が立っている。ここから北に広がる平場が二ノ郭とされるが、公園化されており明確な遺構はない。主郭は参道の階段を登った先の頂部にあり、東西に長い大きな平場になっているが、神社建設による改変もあるのか、あまり明確な遺構は見られず、主郭の南に一段低く腰曲輪らしい平場があるだけである。かつては大きな解説板もあったらしいが、現在は撤去済みで残っていない。
 高森古楯は、ある程度の眺望には優れるが、周囲には似たような丘陵地が広がっており、これらの丘陵地帯の中程に位置している。殊更な要害地形でもなく、なぜここに陣を構えたのか、少々不思議である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.758718/141.174928/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション)

田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション)

  • 作者: 新野 直吉
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:古代平山城
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大瓜城(宮城県大衡村) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6248.JPG←枡形空間と空堀
(2019年11月訪城)
 大瓜城は、折口館とも言い、鎌倉時代以降この地を支配していた渋谷氏の一族、福田氏の居城である。沼舘愛三著『伊達諸城の研究』によれば、福田氏の先祖は相模の豪族渋谷庄司重国の次男武蔵権守実重と言われ、相模国渋谷荘内福田を領していた。戦国前期の天文年間(1532~55年)頃には黒川氏の家臣となっており、福田若狭広重・右近父子がこの地に居住したと言う。

 大瓜城は、比高30m程の丘陵東端部に築かれている。東の車道から林の中に腰曲輪の切岸が見えるので、そこを適当に登っていけば、もう城内である。南に向かって開いたコの字型の上部曲輪群とその間の谷部に展開する緩斜面の平場で構成された珍しい形態で、現地解説板によれば「枡形陣地」と言う形態とされる。コの字型の上部曲輪群は、外周に空堀が囲繞し、土塁や櫓台も築かれている。広い曲輪ではないが、小屋が置ける程度の幅があり、ここが主郭であったと考えられる。東と北の土塁の外側には腰曲輪群が築かれており、特に東側は麓まで何段も築かれている。また前述の空堀は、西側では横矢掛かりの折れが見られる。空堀の北東部には段差と土塁で囲まれた枡形空間があり、そこから外に向かって竪土塁で側方防御された虎口が築かれている。コの字の中央の谷部には、前述の通り南に向かって降る曲輪群があるが、よく考えるとこれは馳取城の主郭と同じ様な構造であることに気がつく。馳取城の主郭も、北に向かって開いたコの字型に土塁で囲み、その外には空堀を穿ち、主郭内部は北に向かって段々に降っているのである。
 大瓜城は、一部に薮が多いものの遺構がよく残っており、その特異な形態も含めて見どころが多い。
西側の空堀→IMG_6205.JPG
IMG_6141.JPG←コの字型の主郭に囲まれた中央曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.483779/140.825683/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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