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山根城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3509.JPG←空堀と横矢の張出し
 山根城は、歴史不詳の城である。宇都宮氏の重臣益子氏の支城であったとも、那須七騎の一、千本氏の支城であったとも言われるが明確にできない。天文年間(1532~55年)頃の宇都宮尚綱の書状に、市塙越前守が城砦を築いていることが記され、また『那須記』には、1566年に宇都宮勢1000余騎が市花輪に陣を取り、1583年の高塩合戦では左京・舎弟新左衛門等の名が見え、この頃この地は宇都宮勢力の益子一族の所領であった可能性がある。一方、1549年、五月女坂で宇都宮氏を撃ち破った那須氏では惣領高資と弟資胤との間に内訌が生じ、宇都宮広綱は五月女坂合戦で討死にした父尚綱の仇を討つため謀略をめぐらし、その支援を受けた千本資俊は1551年、那須高資を千本城で誘殺した。その恩賞として、広綱は「文谷・市花輪」を資俊に与えた。しかし資俊は1585年に大関高増の謀略によって滝の太平寺で謀殺され、一説にはこの時に山根城も落城したと言う。また益子氏も主家宇都宮氏に叛し、1589年に滅ぼされた。江戸初期には、この地は千本領であった。この様に、この地は益子氏・千本氏の両勢力の境目にあって、帰属が時により変遷した様である。

 山根城は、真岡鐵道 市塙駅のすぐ東にそびえる丘陵上に築かれている。現在「記念樹の森」と言う公園になっているが、城の遺構は概ねよく残っている。全周を空堀で囲んだ主郭を中心に、西から南にかけての斜面に何段もの帯曲輪群を築いている。主郭の北西部には張り出した櫓台があり、おそらく北面にあったであろう虎口に対して、左袖の横矢掛りとなっている。また主郭背後にはしっかりした二重堀切が穿たれ(主郭空堀と合わせると三重の堀)、その両端は下方の平場に通じている。この平場の内、南側のものが館跡とされ、井戸跡がわずかな窪みとなって残っている。この他、帯曲輪群の北西部に竪堀が見られる。以上が山根城の遺構で、公園化による改変が多いが、城の雰囲気はよく感じられる。主郭からは、西方正面に御城がよく見える。また東には芦原城が隣接している。
二重堀切の外堀→DSCN3572.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.537778/140.112344/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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