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神長北要害(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4038.JPG←主郭~南郭間の堀切
 神長北要害は、歴史は伝わっていないが、その位置関係から神長南要害と共に那須氏の本城烏山城の西方を防衛する支砦と考えられている。

 神長北要害は、比高50m程の丘陵上に築かれている。北西麓にデイケア施設があるが、その敷地の奥の藪の中にいきなり大竪堀が出現する。これを登っていけば、城域に至る。大きな切岸と全周する横堀で防御した城砦で、コンパクトながらメリハリのある縄張りを有している。北側に主郭、その南に堀切を挟んで南郭が築かれている。南郭も外周に横堀が穿たれ、南東の土塁から坂土橋が曲輪に繋がっており、馬出しと考えても良いかもしれない。南郭の南斜面には、更に何段かの腰曲輪群が築かれており、南尾根に大手があったことがわかる。主郭は、この手の小城砦にしては思ったより大きく、北端には櫓台を築き、北尾根との間は外周の横堀と繋がる堀切で分断している。この堀切は、鋭さのある大きな薬研堀である。主郭の両翼共に横堀を穿って防御している。非常に求心性の高い縄張りで、見応えがある。
主郭外周の横堀と大切岸→DSCN4082.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.666044/140.136570/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

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  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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大谷津城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3880.JPG←主郭北側の横堀
 大谷津城は、千本城の支城である。伝承では、永正年間(1504~21年)に大谷津伊勢守藤永が築いたとされるが、藤永の存在自体に確証がない。『大谷津城主系譜(平野文書)』では、大谷津氏初代は政永とされ、1516年に「政永屋形」を築いたと言う。2代持茂は居城わずか3年で、3代茂永が伊勢守を名乗って、西方500mに宇都宮勢を防ぐための出城・ひめ城を築いている。茂永は那須氏に従って軍功を挙げ、芳志戸村・曲畑村を加増されている。4代茂吉は、1585年に滝の太平寺の変で千本城主千本資俊が黒羽城主大関高増に謀殺されると、城に火を放って千本氏に殉じたと言う。その後、滝の別当が大谷津を領し、還俗して大谷津周防を名乗ったと伝えられるが、千本氏謀殺の際、滝太平寺の別当が高増に協力しているらしいので、その恩賞として大谷津領を拝領したのかもしれない。いずれにしても大谷津城は、杉山城続谷城田野辺城等と共に千本城の支城として宇都宮氏に備える重要な役割を負っており、千本城落城と共に廃城となった。

 大谷津城は、小貝川東岸の比高35m程の丘陵上に築かれている。南西麓に城址案内板があり、民家脇を登る小道が付いている。かつての大手道とされ、切通し状の道がクランクしながら登っている。その先は腰曲輪となる。城内は山林や畑となっており、改変があるものの腰曲輪群・空堀・切岸・土塁等がしっかり残り、縄張りはほぼ追える感じである。丘陵の中央部北側に主郭があり、南に二ノ郭・三ノ郭を連ね、更にこれらの外周に腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。主郭と二ノ郭の間は切岸だけで区画され、二ノ郭~三ノ郭の間はほとんど埋まってしまっているが、空堀で分断されていた様である。主郭の北側には円弧状に横堀が穿たれている。また主郭の南西には鏡池という池があったらしいが、現在はわずかな窪地が残っているだけである。この他、城域東側は堀跡と思われる一段低い畑地が見られる。よく参考にさせていただいているHP「新 栃木県の中世城郭」などでは、改変によって随分と評価の低い城であるが、実際に見た限りではそれほど酷い状態とは感じられなかった。これだけ城跡らしさが残っていれば、満足すべきだろう。
二ノ郭~三ノ郭間の空堀跡→DSCN3934.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.596425/140.102216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
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  • 発売日: 2015/02/16
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ひめ城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3745.JPG←主郭先端の堀切
 ひめ城は、大谷津城の出城である。大谷津城主大谷津伊勢守茂永が、宇都宮勢を防ぐために築いた出城と伝えられる。

 ひめ城は、大谷津城から谷を挟んだ西方の、比高約40mの丘陵上にあり、両城の距離はわずか500m程しか離れていない。北尾根にわずかな踏み跡があり、北麓からそれを辿ればやがて城の近くまで来ることができる。小型の城で、縦長の台形に近い形状の主郭を置き、前面・後面を土塁で防御し、その外側に堀切を穿って尾根を分断している。また主郭の両側には帯曲輪が廻らされ、西側のものは一部が横堀となっている。また主郭の南側に張り出した出曲輪があり、その周囲も堀が穿たれているが、薮が多くて確認が困難である。普請は明瞭であるが、臨時の陣城的構築の小城砦で、おそらく大谷津城を攻撃しようとする敵勢に対して、別働隊をここに置いて背後から牽制する役目を負っていたと思われる。
主郭と前面の土塁→DSCN3792.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.593875/140.096809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

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  • 作者: 西股 総生
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  • 発売日: 2018/09/22
  • メディア: 文庫


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文谷城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3679.JPG←主郭北側の堀切
 文谷城は、歴史不詳の城である。その立地から、那須氏勢力に備えた宇都宮氏麾下の出城と考えられている。特に杉山城に対峙し、千本街道を通じての那須氏勢力の防御の役割を担っていたものと推測されている。尚、『稲毛田の里』では、文谷城は梶山城と記され、正治年間(1199~1200年)に稲毛田の長臣文谷治部助政資が築いて居城したとされる。政資8世の孫家資の時に、稲毛田城落城と共に廃城となったと言う。

 文谷城は、小貝川西岸の比高20m程の丘陵南端部に築かれている。南北に細長い主郭と、南の小さな二ノ郭から構成されている。主郭・二ノ郭の間は堀切で分断され、主郭・二ノ郭の西側には延々と横堀が穿たれている。主郭の南西には虎口郭が張り出しているが、薮がひどくわかりにくい。往時はこの虎口郭から二ノ郭に木橋が架かっていたのだろう。横堀は主郭の北側に回り込んで、堀切となって尾根を分断し、そのまま東側に長い竪堀となって落ちている。そこから尾根を挟んで、北にももう1本堀切が穿たれている。城域はここまでだが、訪城時には何とこの北端の堀切から10m程のところまで重機が入って整地をしていた。後で市貝町に問い合わせたが、城の遺構は守られるとのことであった。この他、主郭の東側にはいくつかの帯曲輪が見られる。そのうち北東のものは、前述の堀切から落ちる竪堀の横にあり、主郭搦手の虎口郭になっていた様である。それにしても城内は薮が多く、遺構が少々わかりにくい。尚、主郭には鉄骨の覆屋と廃重機が放置されており、以前は畑になっていた様である。南東麓に伸びる登道があるが、畑にしていた時に改変されたものであろう。この登道も、現在はほとんど薮に埋もれている。小さい城であるが、遺構はよく残っている。薮が多くて未整備なのが残念である。
主郭西側の横堀→DSCN3711.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.564203/140.097452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
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タグ:中世平山城
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上菅又館(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3652.JPG←頂部の平場
 上菅又館は、歴史不詳の城館である。地名に堀ノ内と言う名が残るが、実際に館跡であったかどうかも不明とされる。山一つ隔てた西の谷沿いには村上城田野辺城があり、北の千本城に通じているので、益子氏か千本氏が背後の間道を押さえる城館として築いたものであったのだろうか?

 上菅又館は、山間の谷に面した比高20m程の丘陵上に位置している。館跡とされる頂部の平場は畑になっているが、南東には民家が数棟立ち並んでいて、こちらからの進入はできない。『栃木県の中世城館跡』によると、「北と西側に土塁と考えられるものの一部が残存」とあるので、私はそれだけ確認しようと北西の斜面を直登してみた。林の中から見た限り、ただの畑地で土塁らしいものは明確には確認できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554603/140.135325/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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芦原城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3628.JPG←主郭手前の空堀
 芦原城は、歴史不詳の城である。山根城の東側に隣接して築かれており、両城一体となって機能したと推測される。千本城の支城との伝承もあるが、明確ではない。城の立地から、最初に芦原城が築かれ、後に出城として山根城が築かれたとの説も提示されている。

 芦原城は、前述の通り山根城の東の丘陵地に隣接して築かれている。山根城とは二重堀切を介しているだけなので、普通に考えれば一つの城として扱っているところだが、なぜ別城として名前がついているのか不思議に思う。山根城の別郭と考えた方が自然である。肝心の遺構はかなり不明瞭で、山根城と区画する二重堀切の裏に帯曲輪が見られ、主郭とされる平場の手前に空堀1本と土塁が見受けられるが、それら以外の遺構ははっきりしない。『栃木県の中世城館跡』の縄張図では、背後の丘陵上が主郭で、土塁が部分的に残っているとされるが、現在は薮が多いせいもあって、主郭を囲む土塁はよくわからない。主郭とされる平場の北側に、山中を通る道の跡があり、道沿いに切岸状の段差があるが、後世の改変のようにしか見えない。結局、どういう構造の城なのか、よく把握することができなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.537657/140.113717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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タグ:中世平山城
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山根城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3509.JPG←空堀と横矢の張出し
 山根城は、歴史不詳の城である。宇都宮氏の重臣益子氏の支城であったとも、那須七騎の一、千本氏の支城であったとも言われるが明確にできない。天文年間(1532~55年)頃の宇都宮尚綱の書状に、市塙越前守が城砦を築いていることが記され、また『那須記』には、1566年に宇都宮勢1000余騎が市花輪に陣を取り、1583年の高塩合戦では左京・舎弟新左衛門等の名が見え、この頃この地は宇都宮勢力の益子一族の所領であった可能性がある。一方、1549年、五月女坂で宇都宮氏を撃ち破った那須氏では惣領高資と弟資胤との間に内訌が生じ、宇都宮広綱は五月女坂合戦で討死にした父尚綱の仇を討つため謀略をめぐらし、その支援を受けた千本資俊は1551年、那須高資を千本城で誘殺した。その恩賞として、広綱は「文谷・市花輪」を資俊に与えた。しかし資俊は1585年に大関高増の謀略によって滝の太平寺で謀殺され、一説にはこの時に山根城も落城したと言う。また益子氏も主家宇都宮氏に叛し、1589年に滅ぼされた。江戸初期には、この地は千本領であった。この様に、この地は益子氏・千本氏の両勢力の境目にあって、帰属が時により変遷した様である。

 山根城は、真岡鐵道 市塙駅のすぐ東にそびえる丘陵上に築かれている。現在「記念樹の森」と言う公園になっているが、城の遺構は概ねよく残っている。全周を空堀で囲んだ主郭を中心に、西から南にかけての斜面に何段もの帯曲輪群を築いている。主郭の北西部には張り出した櫓台があり、おそらく北面にあったであろう虎口に対して、左袖の横矢掛りとなっている。また主郭背後にはしっかりした二重堀切が穿たれ(主郭空堀と合わせると三重の堀)、その両端は下方の平場に通じている。この平場の内、南側のものが館跡とされ、井戸跡がわずかな窪みとなって残っている。この他、帯曲輪群の北西部に竪堀が見られる。以上が山根城の遺構で、公園化による改変が多いが、城の雰囲気はよく感じられる。主郭からは、西方正面に御城がよく見える。また東には芦原城が隣接している。
二重堀切の外堀→DSCN3572.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.537778/140.112344/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

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  • 作者: 義定, 那須
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舟戸城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3346.JPG←三ノ郭の屈曲する堀切
 舟戸城は、宇都宮氏の支城である。築城者・築城年代は共に不明であるが、伝承では応永年間(1394~1428年)に水沼主水勝侶が築いたとも、天文年間(1532~55年)に宇都宮氏の家臣水沼五郎が築いたとも言われている。宇都宮国綱が宇都宮氏当主であった時代の『宇都宮二荒山神社家臣名簿』には「舟戸城に風見信濃守居住す」と記載されており、戦国末期には風見信濃守の居城になっていた様である。尚、北東の平地には水沼城があり、舟戸城は水沼城の有事の際の詰城だったとも考えられる。

 舟戸城は、野元川西岸の比高20m程の丘陵南端に築かれている。南から順に、ニノ郭・主郭・三ノ郭・四ノ郭と並んだ連郭式の縄張りとなっている。四ノ郭と主郭は墓地となって改変を受けているが、遺構は比較的よく残っている。四ノ郭の墓地に車を止めて、南に進むと、すぐに小道の両側に三ノ郭との間を分断する堀切が現れる。特に道の西側の堀は、内側に土塁を築き、クランクの屈曲を設けて横矢を掛けている。この堀の西端は、三ノ郭西側に横堀となって回り込んでいるが、すぐに腰曲輪に変化している。三ノ郭は竹林で、西側に段々に腰曲輪が築かれている。更に南に進むと墓地があり、そこが主郭である。主郭の北側にも堀切が穿たれ、小道の西側の堀は、主郭の西側に回り込んで横堀に変化し、延々と南に伸びている。この横堀はニノ郭先端まで伸びている。主郭と二ノ郭の間にも堀切が残存し、二ノ郭の先端にも堀切が穿たれている。ニノ郭は山林となっているが、方形区画の土壇があり、その周りは堀状地形となっているが、おそらく後世の改変と思われる。ニノ郭の南は自然地形であるが、堀切の前に小さな土壇があり、物見台ぐらいはあったらしい。この他、四ノ郭の北西にも空堀と土塁が残っている。
 舟戸城は、主要部が墓地化されているので、あまり期待していなかったが、しっかりと遺構が残っている。西斜面に腰曲輪や横堀を築く一方で、東斜面は急崖で腰曲輪もないことから、東方への防衛を意識した宇都宮氏の要害だったものと推測される。
主郭切岸と横堀→DSCN3380.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.524295/140.016342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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御城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3270.JPG←ニノ郭南側の土塁と空堀跡
(2020年2月訪城)
 御(み)城は、歴史不詳の城である。御城とは「実城」の転訛とも考えられる。周辺には市花輪館村上城があることから、益子氏に関連した城だったと推測されている。

 御城は、小貝川と桜川に挟まれた比高20m程の舌状丘陵南端部に築かれている。『栃木県の中世城館跡』所収の縄張図によれば、南端から北に向かって、主郭・二ノ郭・三ノ郭を配置した連郭式の城で、主郭と二ノ郭の間は空堀と土塁で区切られ、ニノ郭と三ノ郭は土塁で区切られているとされる。しかし現地を見ると、土塁は僅かなものであまりしっかり普請された感じではなく、空堀も山道の跡程度のかなり浅いものである。主郭は山林となっていて、一部にわずかな土塁が確認できるだけである。ニノ郭は竹林で、真ん中に小道が通り、南端と北端にわずかな土塁が見られる。三ノ郭との間は土塁の外側に溝状の小道があり、おそらくこれも空堀跡だろう。三ノ郭は、薮と墓地・空き地になっているが、北辺部に浅い堀状溝が確認できる。この他、主郭の南東下方には畑の平場があり、腰曲輪跡だろう。他にも丘陵の両側に民家や畑などに変貌した平場が散見され、これらも腰曲輪跡と考えられる。遺構としてはこの程度で、残念ながらほとんど湮滅に近いぐらい、城郭としての痕跡がわずかである。しかしこんな無名の城でも登り口には城址標識があり、市貝町の他の城と同様、町の史跡保護に関する姿勢が素晴らしい。
ニノ郭北側の空堀跡→DSCN3293.JPG
DSCN3308.JPG←三ノ郭北辺の空堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.538812/140.105649/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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タグ:中世平山城
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生田目城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3212.JPG←主郭背後の空堀
(2020年2月訪城)
 生田目(なばため)城は、歴史不詳の城である。宇都宮氏の重臣益子氏の家臣に生田目氏がいることから、生田目氏の居城と推測されている。

 生田目城は、小貝川東岸に連なる丘陵地帯の一角にある。生田目集落背後の比高20m程の丘陵上に位置し、主郭・二ノ郭・三ノ郭と3つの曲輪で構成されているとされる。近くの畑にいたご老人に話を伺ったが、「あれは城じゃない、寺の跡だ。偉い学者さんが勝手に城だと言っているんだ!」と言っていた。ちょっと怪訝に思いながら、とりあえず丘陵北側にある登り口の場所を聞いて、登ってみた。明確に確認できる平場は2段で、西側の低い平場が三ノ郭らしく、先端に土壇があり、小さな東屋(お堂)と石碑がある。昔はここに正覚寺という寺があったらしい。郭内には井戸も残っているが、コンクリートの縦管になっていて、往時から残っているものかは不明。三ノ郭の東側に切岸があり、その先は自然地形に近い平場が広がっているが、草木が多く地形がよくわからない。もしかしたら段差で2段に分かれているかもしれないが、あったとしてもわずかな段差である。東端には土塁が築かれ、その背後には浅い空堀が穿たれている。わずかに横矢掛りのクランクもあり、切岸は甘いが明らかに城跡である。この土塁があるのが主郭なのだろう。この他、帯曲輪らしい平場もあるが、後世の改変の可能性もあって遺構かどうかはよくわからない。主郭の東は、きれいに薮払いされているが、自然地形のままである。
 生田目城は、遺構の規模・構造から考えると、戦国期以前の城だったように思われる。益子町の「ましこ世間遺産」にも選出されており、町でも城跡として認識している様なので、ご老人が城じゃないと否定していたのが不思議である。
三ノ郭先端の土壇→DSCN3191.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.446660/140.091230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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笠間城 その2(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

DSCN2903.JPG←天守曲輪の腰曲輪の一つ
(2020年2月訪城)
 2月に笠間市で城郭関係のシンポジウムがあり、そこで笠間城の広域の縄張図を手に入れることができたので、城の主要部を再訪するとともに、以前に踏査していなかった遺構を確認した。これらを見ると、笠間城は幕末まで使われた城でありながら、中世山城の姿を濃厚に留めた縄張りであったことがわかる。

<天守曲輪の腰曲輪群と二重竪堀>
腰曲輪から落ちる二重竪堀→DSCN2827.JPG
 本丸平場から堀切を挟んで東にそびえる佐白山には天守曲輪が築かれているが、佐白山の北斜面を中心に天守曲輪を防衛する腰曲輪群が何段も築かれている。中には、土塁で取り巻いた半月状の腰曲輪もある。また一部の腰曲輪では、下方に向かって二重竪堀が穿たれている。

<北西尾根遺構群>
DSCN2942.JPG←下段郭切岸と横堀
 二ノ丸腰曲輪の北から北西に向かって伸びる尾根上には、3段の曲輪群で構築された外郭がある。曲輪は下に行くほど広くなる末広がり形状で、付け根には物見台と堀切(現在は遊歩道が貫通)がある。広い下段郭の北東部には土塁が築かれ、西側には一段低く虎口郭が置かれている。下段郭の西面から北面にかけては横堀が構築されている。横堀の西側下方では更に堀切が穿たれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.385515/140.264887/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<二ノ丸腰曲輪群 北西端の堀切>
先端の堀切→DSCN2985.JPG
 二ノ丸の外周には数段の腰曲輪群が築かれているが、北西端の曲輪の先に堀切が穿たれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.384410/140.265037/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<正福寺郭遺構群>
DSCN3033.JPG←外周の大横堀
 入手した縄張図には「正福寺跡」と記載されているが、実質的に出城であるので、ここでは正福寺郭と呼称する。薮が多くて郭内の踏査は困難であるが、3段ほどの環郭式に配置された曲輪群で構成されている。この曲輪群の北側1/3周ほどを、大横堀と大土塁で取り巻いている。この横堀は、西端部で竪堀となって落ち、千人溜り(的場丸)に通じる車道を横断している。また横堀の土塁の外側にも北東と北西に腰曲輪が置かれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.385481/140.267156/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<正福寺郭の東側遺構群>
塁線が内側に折れた切岸→DSCN3078.JPG
 正福寺郭の東側の尾根にも曲輪群が築かれている。中心となる曲輪は切岸で囲まれ、2ヶ所ほど塁線が内側に折れて横矢を掛けている。北東部にはL字に横堀を穿ち、東側下方に更に堀切を穿っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.384885/140.269248/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<北東尾根の遠堀>
DSCN3153.JPG←大堀切
 城域からかなり離れた北東尾根の中腹に、大堀切が穿たれている。堀切の前面には大土塁が構築され、堀切の後ろには曲輪が築かれている。防衛陣地であったことがわかる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.387372/140.270396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続 図説 茨城の城郭

続 図説 茨城の城郭

  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
  • メディア: 単行本


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千石城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2486.JPG←堀切と二ノ丸
(2020年2月訪城)
 千石城は、松山城とも言い、伊達氏の家臣遠藤氏の居城で、伊達領最北端を守る要衝であった。伝承では、遠藤氏の祖遠藤盛遠(文覚上人)が築いたとされるが、定かではない。室町時代の1401年に、遠藤盛継が鎌倉公方足利満兼より志田・玉造・加美三郡の奉行に任じられて陸奥に下向し、千石城を居城とした。以後、200年間7代に渡る遠藤氏の居城となった。1536年、大崎氏の内乱に際して、15代光定は伊達稙宗に従って古川城攻撃に参陣した。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦が生起した。その際、千石城は留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢が集結する前線基地となった。このことから北の鳴瀬川を挟んで大崎領と対峙する、伊達家臣団の最北限として遠藤氏が位置付けられていたことがわかる。1590年の葛西大崎一揆平定の際も、伊達政宗は千石城に入城している。一揆平定後、政宗が岩出山城に移封となると、遠藤出雲守高康は領地替えとなって登米郡石森館に移封となった。その後、石川昭光が1598年まで在城し、その後は古内重直が1603年まで在城した。1603年からは茂庭良元が松山の領主となり、千石城三ノ丸に居を構えた。1631年、千石城三ノ丸が手狭であったため、新たに下屋敷として上野館を築いた。良元は1651年に隠居すると、上野館に移り住んだ。その後1657年、良元の子定元は作事の完成を待って正式に居館として上野館に移住し、千石城三ノ丸には留守居として家臣1名を置くだけとなった。

 千石城は、標高76m、比高60m程の丘陵上に築かれている。城跡は現在御本丸公園として整備されており、主要な曲輪だけでなく、周りの段曲輪・腰曲輪に至るまで、かなり広範囲に整備されているので、訪城は容易である。北から順に三ノ丸、繋ぎの曲輪、二ノ丸、本丸が配置された連郭式の縄張りである。三ノ丸は公園化で改変が進んでいるが、周囲に低土塁が残り、南西部に大型の櫓台が残っている。三ノ丸の北側には腰曲輪群が何段も築かれ、大手道の車道沿い両側にも段々の平場が見られる。また三ノ丸北東の尾根にも舌状曲輪群が置かれている。ここは花舘の地名が残っているが、花=端の意味で、城域先端部の曲輪群である。繋ぎの曲輪の奥には堀切を挟んで二ノ丸があり、更に堀切を挟んで本丸がある。本丸は中央部がややくびれたつづみ型の曲輪である。本丸背後にも大切岸の下に舌状曲輪が2段あり、その先は大堀切で分断されている。この大堀切は、房総南部に多い垂直絶壁型の堀切で、崩れにくい地質らしい。そういえば、各曲輪の切岸も鋭く切り立った垂直に近い切岸である。またこの大堀切まで西麓から登道があり、弁慶坂と呼ばれている。この登道周囲にも多くの腰曲輪群が築かれている。この他、繋ぎの曲輪・二ノ丸・本丸の周囲にも帯曲輪、腰曲輪が築かれている。本丸の南東には切岸直下に小堀切を穿ち、その下方の尾根にも段曲輪群が築かれている。千石城は、近世に拡張整備された部分もあると思うが、戦国期には伊達領最北端を守る要衝だっただけあって、巨大な拠点城郭である。
大堀切→DSCN2537.JPG
DSCN2577.JPG←主郭切岸と南東の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.505410/141.053091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


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百々城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2351.JPG←三ノ丸の遠望
(2020年2月訪城)
 百々(どど)城は、鶴城とも言い、奥州探題大崎氏の庶流百々氏の居城である。百々氏は、大崎氏5代満持の弟高詮を祖とする一族で、1536年の大崎氏天文の内訌の際には、大崎義直方として百々弾正少弼直孝の名が見える。天正年間(1573~92年)には大崎義隆重臣の百々氏5代左京亮隆元が城主であった。1588年の大崎合戦では、隆元は師山城に籠もって伊達軍と争ったと言う。1590年の奥州仕置により大崎氏が改易となり、葛西大崎一揆を経てこの地が伊達領となると、1591年、亘理元宗が亘理城から百々城に移封となり、1593年には元宗は更に涌谷城に移り、亘理氏の家臣長谷修理亮景重が百々城主となった。寛文年間(1661~73年)に長谷氏も涌谷城下に移ると、百々城は廃城となった。

 百々城は、比高30mの丘陵南端に築かれている。南に開いたU字状になった尾根を利用して築かれた城で、間の谷間には城主・家臣団の居館群や馬場があり、谷の中心に大手道が通っていた。現在はあちこち山が削られて地形がやや変形している様だが、概ねの遺構は残っている。城の中心はU字尾根の西側尾根にあり、北から順に本丸・二ノ丸・三ノ丸と並んでいる。妙見社の脇から登った先が三ノ郭の上段で、畑になっている。その南には1~2m程の段差で区切られた下段の平場があるが激薮で進入困難である。一方、三ノ郭の北にはニノ郭があって、畑と竹林になっている。その奥に主郭があり、やはり竹林になっている。少々薮っぽいが踏査は可能である。以前は畑であったらしいが、主郭内にはコンクリートの深い大穴がある。『日本城郭大系』によれば、太平洋戦争中に製錬所が建てられていたらしいので、その跡なのだろう。主郭の北端はやや高くなっており、櫓台があったかもしれない。その北には細尾根が続き、尾根の先端に物見台がある。その先は採石で尾根が消滅している。東側の尾根は、民家の裏なので踏査できなかったが、遠目に平場があって畑になっているのが見えた。
 百々城は、堀切・横堀がなく、小規模な段差・切岸だけで区画された曲輪群が連ねられている。虎口構造などにも取り立てて言うべきことがなく、江戸前期まで使われた城にしては縄張り面での特色が少ない。居館機能を優先した城だった様である。
 尚、城内に妙見神社があるのが不思議である。百々氏は源氏だから八幡神社ならわかるが、妙見社といえば下総の名族千葉氏に所縁が深い社である。奥州千葉氏の一族もこの地に関係したことがあったのだろうか?
本丸後部の土壇→DSCN2380.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.583969/141.069077/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


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如来山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2256.JPG←主郭周囲の三重横堀の内堀
(2020年2月訪城)
 如来山城は、如来山館とも言い、城主は葛西氏の家臣葛西典益(伝益?)入道であったとも、或いは永正年間(1504~21年)に七尾城の山内首藤氏と同盟を結んだ牛田典膳とも伝えられる。永正合戦では、葛西氏は山内首藤氏を撃ち破って没落させているので、元々牛田典膳の居城であったものを、葛西氏による山内首藤氏攻略後に、葛西氏が入城した可能性も考えられる。1511~90年まで、葛西氏一族の城であったと言う。

 如来山城は、旧北上川東岸の比高わずか10m程の台地上に築かれている。台地の南を通る県道61号線と堤防の交差部付近に城址解説板があり、そこから堤防上の小道を北へ向かうと、五十鈴神社と大日堂があり、その東側がもう城域である。この辺りは主郭の西側に当たり、久しぶりの倒竹地獄である。しかし倒竹が酷いのは主郭西側だけで、少し東に向かえば普通程度の薮になる。主郭は横長の台形状の形状で、台地の南端に位置している。主郭の外周の三方(東・北・西)は堀が廻らされている。この堀は、東と北では三重横堀となっており、しかも丘の上であるにも関わらず湧水があるらしく、内堀は半分以上が水堀となっている。中間土塁は、南東部では幅広に広がって、先端が物見台となっている。一方西側では、外堀はそのまま掘り切って終わりとなっており、中堀は腰曲輪に変化している。主郭内は耕作放棄地の薮となっている。おそらく主郭の北に広がる丘陵にも外郭が広がっていたと思われるが、現在は宅地化されているので、遺構はよくわからない。
 如来山城は、単純な構造の城であるが、三重横堀は見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.588967/141.270694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


一度は行くべき 行きにくい城 (双葉社スーパームック)

一度は行くべき 行きにくい城 (双葉社スーパームック)

  • 作者: 双葉社
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2019/03/23
  • メディア: ムック


タグ:中世平山城
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