SSブログ

小田野城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

DSCN9050.JPG←主郭背後の二重堀切
 小田野城は、佐竹氏の一族山入氏の庶流小田野氏の居城である。室町初期に、佐竹貞義の7男山入師義の3男自義がこの地に分封されて小田野氏を称し、小田野城を築いた。1407年、佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、山入与義は同族の長倉氏・額田氏らと山入一揆を結成して反発し、翌年、長倉義景が長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。この時、小田野氏は、山入氏の庶家であるにも関わらず佐竹氏方に付いて戦った。山入の乱は100年に渡って続き、小田野氏は軍功により佐竹氏家中での地位を確立し、重臣となった。小田野義正は和田昭為と共に佐竹義昭の側近の筆頭となった。義正の弟義房は兄の跡を継いで、佐竹義昭・義重2代に仕えた。義房の子義忠の時の1590年、小田野氏は水戸へ移り、小田野城は廃城となった。1595年には、義忠は佐竹義宣から久慈郡深萩の蔵入地1173石余を預かった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の時には、義宣に仕えて肥前名護屋に在陣した。1602年、佐竹氏が秋田へ転封となると、小田野義忠は子宣忠と共に秋田に移って常陸を離れた。

 小田野城は、比高60m程の山上に築かれている。東麓には地元の有志で活動している「森と地域の調和を考える会」が立てた解説板があり、そこから登城道が整備されている。城内も会によって薮払いされているので遺構をよく確認できる。山頂に主郭を置き、周囲に帯曲輪を数段廻らし、西側の背後の尾根に二重堀切とやや離れて堀切を穿っている。また南東の尾根に堀切で区画した舌状曲輪を置き、また北東の尾根にも基部に堀切を穿っている。基本的には小郭群と帯曲輪群で構成された小型の城で、主郭も狭小で居住性はほとんどない。堀切もいずれも規模が小さく、大した防御性を持っていたとは考えにくい。遺構はよく残っており、考える会のお陰で縄張りがわかりやすく整備されているが、城としては小規模で、あくまで有事の際の詰城の位置付けであった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.678255/140.266378/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国佐竹氏研究の最前線

戦国佐竹氏研究の最前線

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/03/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー