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玉村城(群馬県玉村町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3182.JPG←食違い虎口の名残の道路
 玉村城は、甲斐武田氏の家臣宇津木下総守下綱(氏久)が築いた城である。1580年1月、厩橋城主北条(きたじょう)高広を武田方に従属させる斡旋をした功績により、武田勝頼は下綱に那波郡西部281貫文を与え、玉村城を築かせた。1582年3月に武田氏が滅亡すると宇津木氏は小田原北条氏に従属し、厩橋衆の北条従属工作を行ったが、織田氏家臣滝川一益が信長より上野一国を与えられて入部したため、工作を中断した。しかし武田氏滅亡からわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死し、その後の天正壬午の乱の中で上野の過半が小田原北条氏の支配下となった。北条高広が同年8月と12月に那波城を攻撃した際、氏久(下綱改め。「氏」は北条氏直の偏諱か)は那波顕宗と共に籠城して撃退した。また小田原北条氏の沼田城攻撃に参陣した功により、利根川東方の福島を与えられた。1584年には先鋒となって由良氏の金山城攻撃に加わり、金山城を攻略した小田原北条氏は金山北城(坂中城)を氏久に守らせた。小田原の役の際には、領内に混乱があって氏久は小田原籠城に赴くことができなかったらしい。小田原北条氏滅亡後、徳川家康の関東移封に伴って箕輪城に封ぜられた井伊直政から、氏久は本領を安堵され、その家臣となった。井伊氏が彦根城に移封となると、氏久の子泰繁も彦根に移った。

 玉村城は、玉村八幡宮の東方250m程の至近に築かれていた。東西に長い長方形をした単郭の平城で、南に食違い虎口、西に平虎口があったらしい。位置は玉村小学校の北隣に当たり、小学校北門の前の道が、西と東のもので位置がずれているのは、この食違い虎口と空堀位置のズレの名残である。主郭は完全に宅地化されており、一部にわずかに堀跡らしい名残を見せるものの、遺構はほぼ壊滅状態である。戦後間もなくの航空写真を見ても、空堀が田んぼの中の水路として残っている程度で、かなり早くに遺構は失われていたらしい。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.305641/139.111397/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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