塚越城(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]
←空堀と土塁
塚越城は、『日本城郭大系』では西光寺城と記載され、戦国時代にこの地を領していた小島氏の居城と推測される。西に隣接する西光寺の寺伝(解説板)によれば、越後上杉氏に仕えた小島豊後が屋敷内に庵を建て、西光庵と称したのが西光寺の起源とされ、天文年間(1532~55年)に豊後の子小島越後によって庵が再興され、西光寺と呼ぶようになったと言う。ただ、この寺伝は少々おかしい。小島越後が庵を再興したのが天文年間(1532~55年)とすると、父の豊後が活躍したのはそれ以前ということになり、まだ越後の上杉謙信が関東に出馬する前のことなので、関東管領山内上杉氏に仕えていたというのが正しいか、或いは天文年間(1532~55年)という年代が間違っているか、のいずれかであろう。いずれにしても小島氏は、戦国後期には武蔵全域を制圧した小田原北条氏の家臣となった。北条氏が滅亡すると、小島氏はこの地で帰農して境内を寄付し、西光寺の開基となった。
尚、『日本城郭大系』では塚越城を平安時代末期の創築とし、また西光寺の墓地には南北朝期に勝呂地区一帯を本拠地とした在地領主・勝(すぐろ)氏の一族、勝次郎左衛門入道頼阿の宝篋印塔(1366年建立)が移されているので、戦国時代以前には勝呂氏の城館であった可能性も考えられる。
塚越城は、前述の通り西光寺境内の東に築かれている。車道脇から入った山林の中に、南北に伸びる土塁・空堀と、更にそこから西に分岐して、東西に長いコの字形をした空堀・土塁が確認できる。空堀は埋もれているのかかなり浅くなってしまっている部分もあるが、何らかの城館があったことは間違いない。わりと良好に残っている遺構なので、文化財に指定して保存してほしいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.973274/139.429078/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
塚越城は、『日本城郭大系』では西光寺城と記載され、戦国時代にこの地を領していた小島氏の居城と推測される。西に隣接する西光寺の寺伝(解説板)によれば、越後上杉氏に仕えた小島豊後が屋敷内に庵を建て、西光庵と称したのが西光寺の起源とされ、天文年間(1532~55年)に豊後の子小島越後によって庵が再興され、西光寺と呼ぶようになったと言う。ただ、この寺伝は少々おかしい。小島越後が庵を再興したのが天文年間(1532~55年)とすると、父の豊後が活躍したのはそれ以前ということになり、まだ越後の上杉謙信が関東に出馬する前のことなので、関東管領山内上杉氏に仕えていたというのが正しいか、或いは天文年間(1532~55年)という年代が間違っているか、のいずれかであろう。いずれにしても小島氏は、戦国後期には武蔵全域を制圧した小田原北条氏の家臣となった。北条氏が滅亡すると、小島氏はこの地で帰農して境内を寄付し、西光寺の開基となった。
尚、『日本城郭大系』では塚越城を平安時代末期の創築とし、また西光寺の墓地には南北朝期に勝呂地区一帯を本拠地とした在地領主・勝(すぐろ)氏の一族、勝次郎左衛門入道頼阿の宝篋印塔(1366年建立)が移されているので、戦国時代以前には勝呂氏の城館であった可能性も考えられる。
塚越城は、前述の通り西光寺境内の東に築かれている。車道脇から入った山林の中に、南北に伸びる土塁・空堀と、更にそこから西に分岐して、東西に長いコの字形をした空堀・土塁が確認できる。空堀は埋もれているのかかなり浅くなってしまっている部分もあるが、何らかの城館があったことは間違いない。わりと良好に残っている遺構なので、文化財に指定して保存してほしいものである。
勝氏の宝篋印塔→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.973274/139.429078/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1